大ユーゴスラヴィアの興亡


〜連邦はどのように成立し、何故崩壊への道をたどったのか〜


平成18年6月 冬月 

第二次大戦でナチスの掃討を名目に東欧諸国に進出したソ連は、戦後その軍事力を背景とした政治介入と、経済支配によってこれらの国々を事実上の勢力下に置き、東欧の国々は衛星国として従属することを強いられ、冷戦構造に組み込まれた。しかしその中にあってユーゴスラヴィア人民共和国はソ連と決別し、独自の社会主義、独自の外交路線を掲げて国際舞台に台頭した、稀有な国家である。だが他の統一国家と異なり南スラヴ族という曖昧な共通項以外異なる宗教、文化、民族を内包し、内部抗争が絶えず歴史を通じて列強に介入され、ただでさえ団結して行動することが困難なこの中規模モザイク国家が、世界が東西二極に分化されたこの時代にあっていかにしてソ連に屈服しない自主独立した強国となりえたのか、そして逆に、ソ連に対抗しうるほどの揺るぎ無い結束を誇ったユーゴが何故崩壊したかについて考えたとき、これが極めて興味深い事象であると判断したため、ここにその考察を試みる。
多くの政治学者が述べるところの「我々」という意識が「彼等=敵」の存在によって初めて発生するというナショナリズムの基本論理から考えるに、強固な団結の持続には敵の存在が必要不可欠といえよう。すなわちユーゴスラヴィアが団結を必要とした最大の理由は、両大戦間期のイタリアや、戦後期のソ連といった明確な仮想敵の存在であった。しかし、1960年代からの冷戦構造の多極化によって、仮想敵としてのソ連の脅威は減退した。結果として、団結すること自体よりも、まとまりの中で個々の共和国がどのような地位を占めるのかが重要となっていったのではないかと考えられる。
 ジョセフ・ロスチャイルドは著書「現代東欧史 多様性への回帰」においてこの時の対立軸を以下のように解説している。
 (1)1950年代までに実現された個人の自由と政治の解放は維持されるべきか、制限されるべきか、それとも拡大されるべきか。
 (2)制度化された政策決定の過程、特に投資の配分の問題について中央集権制と連邦制の間のダイナミックな緊張関係をどこで安定させるか。
 (3)相対的に先進的な北半分の有利な条件の活用と、低開発の南半分の振興のいずれが、社会経済的な発展にもっとも貢献しうるか。
 これらの問題にチトーも含めたユーゴスラヴィア政府の指導者たちは、連邦としての明確な解答を明示することができなかった。これに対して各共和国が独自に出した解答こそが連邦からの分離独立であり、連邦の崩壊だったのではないか。
歴史を振りかえるに第二次世界大戦当時、ユーゴスラヴィアはセルビア王による王政で、摂政のパヴレ公が幼王ペタル2世に代わって政務を執っていた。セーレーヴェ作戦の挫折から西部戦線が膠着していたドイツは、次の矛先を東のソ連に設定、ヒトラーはソ連侵攻の橋頭堡となるバルカン半島の安定のため、ユーゴスラヴィア王国との同盟を模索する。このときのドイツ側の提案はユーゴにとって極めて有利なものであったが、反ドイツを唱えるセルビア系右派がクーデターを起こしてパヴレ公を追放、政権を掌握するとヒトラーは一転してユーゴ攻略を命じた。1941年4月6日のベオグラード空爆とブルガリアからの地上軍投入に始まった電撃侵攻から僅か6日後の4月12日にベオグラードが陥落、17日に王国軍が降伏し、政府はロンドンに亡命した。
枢軸国により侵略され、分割占領されたユーゴスラヴィアには、主に二つの抵抗組織が発生した。一つはチトーの率いた人民解放軍パルチザンであり、もう一つはチェトニクである。チェトニクは旧ユーゴ王国軍の残党であるドラジャ・ミハイロヴィチ将軍が結成した組織で、旧ユーゴ軍将校を中心としたものだった。ドイツ軍は迅速にユーゴの占領を完了すると、ギリシアに、そしてソ連へと転戦していった。そのためユーゴの占領は徹底されず、武装解除は不充分なものであり、これがチェトニクを台頭させる温床となった。ミハイロヴィチの行動は、チトーと対照的で、彼は米英と手を結び、共産主義を憎み、ユーゴスラヴィア王国の再建を望み、勢力温存を図って枢軸軍への大規模な抵抗などの正面衝突は避けた。同時代の極東情勢を鑑みる時、我々はユーゴに日中戦争の構図の縮図を見ることができる。チトーは1941年8月までに、セルビアの村落部のほとんどを手中に収めていた。そして、枢軸国とのさらなる戦闘に備えて、チェトニクとの同盟を模索した。だが、ミハイロヴィチはこの申し出を拒絶し、むしろ共産主義者に敵意を見せた。11月、パルチザンは、ドイツ軍の猛攻、そしてチェトニクとの軋轢のためにセルビア全土から撤退せざるを得なくなった。チェトニクは今や矛先を公然とパルチザンへと向けていた。チェトニクはドイツやその傀儡政権であるネディチ将軍のセルビア国と公然と手を結びはしなかったが、中立的な態度をとり消極的に協力しあった。
 パルチザンはセルビアから、ドイツに支援されたクロアチア独立国の領土となっていたボスニアへと転進するが、クロアチア独立国(名目上、イタリアのスポレト公をトミスラヴ二世とする王制)はクロアチア人過激派のウスタシャに支配されており、ウスタシャはナチスのユダヤ人狩りに倣ってセルビア人虐殺を行っていた。チェトニクは、枢軸国とは戦わずにウスタシャと泥沼の内戦を展開しており、これに対しパルチザンは、民族間の差異を越え、あくまでユーゴスラヴィア国民としての、侵略者である枢軸諸国とその手先であるウスタシャ・チェトニクとの戦いを主張し、虐殺合戦に疲弊していた住民の支持を集めた。こうして1942年夏頃までに、パルチザンはボスニア全土を占領した。そして、11月5日に陥落させたビハチで、チトーは初めて軍の組織化と行政組織の構築を実施する。この時開催されたユーゴスラヴィア人民解放反ファシスト会議(AVNOJ)は、のちに戦後ユーゴ政府の母体となっていく。ビハチ会議は、チトーのパルチザンの活動を、社会主義革命のためではなく民主主義的な基盤に立ち枢軸国を追い出すための祖国防衛戦争として正当化した。これに対する連合国側の反応は様々だった。イギリスはユーゴ亡命政府を受け入れ、ミハイロヴィチを英雄として宣伝していた。だが、イギリスはこのころからチェトニクの実体、むしろ親独的であり、パルチザンとの戦闘にばかり専念していることに気づきはじめ、チェトニクへの支援に疑念を抱くようになった。一方でソ連はパルチザンの敗北を想定しており、ほとんど支援を与えなかった。このことは戦後、チトーとスターリンの間に溝を作る要因となった。
1943年11月末、チトーはヤイツェで第二回人民解放反ファシスト会議(AVNOJ)を招集した。この会議は142名の民族グループや政治団体の代表たちからなる代議機関にまでなっており、この時既に、立法・行政の機能を持っていた。その下部組織であり、実質的に行政を行う臨時政府の役割を果たしたのはユーゴスラヴィア解放全国委員会で、この委員会も第二回AVNOJで結成された。チトーはこの会議で元帥・首相に任命された。また、会議は、将来ユーゴスラヴィアを連邦制によって再編し、王制に関しては全土解放後、人民自身の意志によって決定されることとし、ロンドンのペタル2世とその亡命政権に、それまではユーゴに戻らぬよう警告した。   
一方このころ、東部戦線ではドイツ軍の敗走が始まっていた。ユーゴスラヴィアのパルチザン勢力は、バルカンで最も大きな勢力として重要になってきていた。連合国は、チェトニクとパルチザンのどちらを支援するかの試金石として、ミハイロヴィチのチェトニクに、ドイツ軍の撤退を妨害するための鉄道破砕を要請する。チェトニクはこれを黙殺した。1944年1月、チャーチルはチェトニクへの援助打ち切りを発表、3月にはロンドンの亡命政権をチトー政権と合併させる。この時、奇妙なねじれ状況が発生した。西欧はこれで共産主義者を主体とするチトー政権に乗り換えたが、ソ連はチェトニクへの支援を逆に継続したのである。これはセルビアのほぼ全域が今なおチェトニクの勢力下にあり、チェトニクが戦後ユーゴスラヴィアの主体となると誤算していたとも、ソ連の援助無しで大勢力を築き上げつつあったチトーに対抗する勢力を用意しておきたかったからとも言われている。
 パルチザンは、1944年5月にクロアチアとフィウメを、そして10月にはベオグラードを解放した。ミハイロヴィチは逃亡の末、1946年3月に捕らえられ処刑された。9月、パルチザンは国内から反抗する軍事勢力全てを一掃する。かくてチトーは王制を廃止、さらにナチの支援によるクロアチア独立国の独立を取り消し、ユーゴスラビア連邦人民共和国を成立させたのである。
以上のように、戦時中共産主義のパルチザンを最終的に指示したのは興味深いことにイギリスであり、ソ連ではなかった。ソ連は確かにユーゴ解放に協力したが、パルチザンの支援には消極的だった。このため、ユーゴとソ連が良好な関係を保てたのは、戦後ごく僅かな期間に限られる。1947年の第一回コミンフォルムで、ユーゴ共産党は他国の共産党の権力奪取が遅々として進まないことを非難した。しかし、朝鮮半島やドイツ処理を巡る米ソの対立が明らかになり、戦後構想の破綻と冷戦構造が本格化するにつれ、ソ連とユーゴは次第に対立を深めていった。ソ連は覇権主義をあらわにして東欧諸国を冷戦の前線に築く砦の如く扱い、各国と個別に同盟を結んで、その経済を従属下におさめていく。東欧政策においてソ連は、東欧の社会主義国にある種の連帯が生じることを極度に嫌った。その国家連合体が、ソ連に対抗する勢力となったり西側諸国と独自の外交を展開したりする可能性を警戒したのである。
一方でチトーはユーゴスラヴィアを東南欧の大国に育てるべく、独自の大バルカン連邦構想をたてていた。これは、ユーゴスラヴィア主導で、ブルガリア、ルーマニア、ハンガリー、アルバニア、そして共産化したギリシアを一つの連邦に統合するというものである。チトーはこの計画を念頭に対外政策においてアルバニアをユーゴの第7の共和国にしようとし、リエーカ(フィウメ)問題やギリシア内戦にも積極的に介入した。
 東欧諸国をそれぞれ分割して統治することによって安定した支配を継続しようとするソ連の戦略にとって、当然この構想は東南欧にソ連に対抗しうる社会主義勢力をつくろうとするものと警戒され、スターリンの怒りを買った。しかもチトーは共産党と王党派の内戦が続くギリシアに対し積極的に共産党の支持・援助をしていたが、これはソ連にとって、世界戦略上勢力均衡を崩しかねない米英への危険な挑発行為であり、また、スターリンがチャーチルと取り交わしたいわゆるバルカン分割協定に反するものでもあった。NHKのドキュメンタリーの傑作『映像の20世紀〜勝者の世界分割』でお馴染みの、チャーチルがその場で紙に書きつけたメモにスターリンがやはりその場で無言の内に青ペンで丸をつけただけで成立したという、この豪快な協定において、ソ連はイギリスがインドルートを守る為に重視するギリシアに90%の権益(?)を有することを承認している。ソ連が米英との衝突を避けるためにギリシア問題で自重を促す一方、ユーゴはソ連のこうした弱腰に不満を持ち、ソ連を『修正主義』と批判した。
  当時核兵器の保有という点でアメリカに遅れをとっていたソ連は、西側諸国との衝突に非常に慎重であり、ユーゴの積極姿勢は到底容認できるものではなかった。スターリンはバルカン一の親ソ国ブルガリアとの合邦しか認めないとの指示を出し、この指示はユーゴの猛反発を受けて、最終的に両者に深い亀裂を残したままこの連邦構想は頓挫した。ユーゴがバルカン共産主義の盟主としてソ連と対等に振る舞おうとしたのに対し、ソ連はユーゴをあくまで傘下の一従属国としか見なさなかったのである。   
これらの対立は累積し、1948年6月28日のコミンフォルムからのユーゴ追放という結果を招いた。この6月28日は、ギリシア正教のヴィドヴ=ダン(聖ヴィドの日)である。それは同時にセルボ・クロアート・スロヴェーヌ最初の憲法の制定日、1389年の「コソヴォポリスの戦い」でセルビア人が敗れた日、そして1914年サライェヴォでオーストリアのフランツ・フェルディナント大公が暗殺された日でもあり、あまねくユーゴスラヴィア国民にとって愛国心を掻き立てられる大切な日である。ユーゴスラヴィア国民がひときわ愛国的となるこの日を追放宣言に選んだことは、東欧への見せしめにしようというスターリンの傲慢な思惑とは裏腹に、ユーゴを激怒させ、反ソ連で団結させるという逆効果となった。さらにユーゴが共産化したのは戦時中のパルチザンではなくソ連軍の功績であるというスターリンの虚偽の主張が怒りの火に油を注いだ。
スターリンはユーゴスラヴィア共産主義同盟(共産党)の内部結束を過小評価しており、追放声明で揺さぶりをかけることによって、ユーゴ共産党内部の親ソ勢力に、チトーの更迭を呼びかけたつもりだった。確かに他国の共産党ならばここで、党内のクーデターが発生したことだろう。東欧諸国の共産党は、等しく戦時中に地下活動を続けた国内地下派とモスクワに逃れソ連の庇護を受けたモスクワ派に分かれていた。だが、ユーゴ共産主義同盟は他国の共産党とは異なっていた。チトーのカリスマ、そしてパルチザンで培われた組織力と結束力は、スターリンの予想を遥かに上回るものであった。スターリンが期待をかけていた親ソ派アンドリヤ・ヘブランクとスレテン・ジュヨヴィチは、むしろたちまち孤立し、追放あるいは逮捕された。次にスターリンは軍事クーデターを計画したが、ユーゴ軍の親ソ将校3人がルーマニアに出国しようとして逮捕されただけで、失敗した。この間に行われたソ連による反ユーゴ宣伝と経済制裁は、皮肉にも完全な逆効果となった。この事態を観察していた西側諸国が次々とユーゴに対する態度を軟化させたためである。ただしその返礼として、ユーゴはギリシア内戦における共産党への援助を打ち切らなければならなかった。1950年の朝鮮戦争勃発で、ユーゴはさらなる西側との連携を迫られた。もしもソ連が極東への介入に成功すれば、同じ試みをバルカン半島でも企てる危険性があったためである。そのためユーゴは西側諸国から大量の軍事・経済援助を受けるようになったが、ブルジョワジー帝国主義の西側から援助を受けることを、社会主義国としてイデオロギー的にどのように正当化するかという課題が残った。そこで西側諸国は帝国主義ではなく、自由な社会民主主義政党の活動によって平和的な社会主義への移行過程にあるのだという説明がなされた。
 かくして、第二次大戦の直後から、ユーゴは東側陣営を離れ、西側陣営の協力を得ることである意味特異な共産主義体制を確立していったのである。1953年のユーゴ新憲法は、ソ連型の1946年憲法を否定し、連邦政府の権限を制限し、官僚機構の縮小・合理化を行い、個人の自由を拡大した。またチトーは企業に対する労働者自主管理と、各共和国の大幅な自治権を特徴とするユーゴ独自の自主管理社会主義を建設していった。
 コミンフォルムから追放された際、ユーゴスラヴィアは民族主義的偏向を糾弾された。ソ連よりも自国の利益を優先した東欧の政治家にはしばしばこのレッテルが貼られる。これは、本来共産主義とは民族という概念と無縁のものであるべきだという発想に依拠している。共産主義の根幹にある発展史観は、民族による違いを加味しない。すべての民族が、あるいはすべての国家が、究極的には共産主義に行き着く。故に、民族や国ごとの分類や配慮は究極的には無意味である。これは共産圏全体の利益は一社会主義国の主権に優先するというブレジネフ・ドクトリン、制限主権論の基礎理論だ。
 だが、この理想には根本的な欠陥がある。それは、そもそもユーゴスラヴィアには革命を担うようなプロレタリアートなど存在しなかったという現実を無視していることである。この点で、ソ連の東欧支配はそもそも根底から間違いを含んでいて、結局はイデオロギーハザードとも言える、強大な軍事力によって押さえつけられた各国の無理やりの従属しか形成できなかった。マルクスの思想によれば、資本主義段階は労働者の革命によって打破される。しかし、工業化が遅れ農業を生業とする東欧はそもそも彼の想定するような高度な資本主義段階ではなかった。そこに、本来の共産主義を必要とする労働者は微少であり、それは、両大戦間期の各国共産党が弱体であったことからも明らかである。
にもかかわらずユーゴスラヴィア共産主義同盟が農民たちに支持されたのは、チトーが毛沢東もそうだったように、ユーゴの現状に合わせてアレンジした独自の共産主義を工夫したからに他ならず、画一的な理想を現実に押し付けるしか能のないモスクワ帰りのエリートには到底無し得ない現場の知恵である。ひとつはやはり彼の掲げたユーゴスラヴィアを復活させるという思想、そして二つ目は、農業の集団化を行わなかったことである。ユーゴは、農地改革で敵勢力の持っていた土地の再分配を行ったものの、共産主義の原則に反し、農業の集団化は行わなかった。これは、先ほど述べたとおり本来共産党の支持基盤となるプロレタリアートが、工業の未発達のためにほとんど存在せず、パルチザンを支持したのはおもに地方の農民たちであったという事実に由来する。農業の集団化は、自分の土地を大切にしている中小自作農の反感を買い、共産党の主要な支持基盤を失う恐れがあったのである。こうしたチトーの柔軟な政策が、国民の団結を醸成したのである。

ユーゴスラヴィア連邦には崩壊以前、以下のような標語が存在していた。
7つの国境、6つの共和国、5つの民族、4つの言語、3つの宗教、2つの文字、そして、たった1つの連邦。
 このうち、6つの共和国、5つの民族、それと4つの言語は、チトー体制によって認められ、作り出されたものであった。民族に関して言えば、両大戦間期の旧ユーゴスラヴィア王国は当初、セルボ・クロアート・スロヴェーヌと称されていた。すなわちセルビア人・クロアチア人・スロヴェニア人王国である。つまりこの時代において、ユーゴスラヴィアの構成民族として認められていたのはセルビア、クロアチア、スロヴェニアの3民族のみであったのだ。モンテネグロとマケドニアは、セルビアの一部と考えられていた。それに対してこの6共和制は、いままで一民族と認められていなかったモンテネグロとマケドニアに民族としての地位を与え、共和国としてセルビアやクロアチアと同等の自治権を付与したのである。両大戦間期の王国議会では、セルビア人政党がクロアチア人やスロヴェニア人の諸政党を押さえて圧倒的な議席を確保していたために、北部のクロアチア・スロヴェニアは経済的優位に立ちながらもそこから吸い上げられた資本がセルビアに投下されるという政策に不満を持っていた。結局チトー体制でも、この南北格差が是正されることはなく、クロアチアとスロヴェニアからの資本がセルビアへと投下されることにも代わりはなかった。だがそれは、あくまで連邦の中で立ち後れているセルビアの振興のために行われたのであって、セルビアのためではないと認識されていた。これにはチトーがそれまでのユーゴの指導者のようなセルビア人ではなくクロアチア人であったことが影響している。彼は生涯自分はユーゴスラヴィア人であるという信念を貫いたが、もしも彼がセルビア人だった場合、彼の主張は大セルビア主義の隠れ蓑だと誤解されたであろう。中央集権主義のセルビアと分権主義のクロアチアの対立という伝統的構図を打破し、ユーゴスラヴィアという統一された連邦国家を維持する上で、彼がどの民族出身であるかに捕らわれてはいないことは説得力の醸成に一役買った。彼はむしろ、セルビアの力を抑制し、他の民族との格差を埋めようとした。6共和国制も、人口の上では圧倒的に優位にあるセルビア人を少なくする試みであったと言える。のちには、さらにセルビアの2つの自治州を、共和国とほぼ同等の地位に置き、さらにセルビア勢力を少なくしようとした。経済や工業において、セルビアに資本投下されたのも、セルビアが連邦の中で後進的であったからにすぎず、単なる合理的判断として理解されていた。
だが1953年のスターリン死去は東欧に大きな混乱をもたらし、1950〜60年代のユーゴもまたこの影響で動揺した。1966年7月、南部・セルビア有利な中央集権による計画経済推進の牽引役だったランコヴィチが失脚した。官僚機構や党組織、警察の私物化によって連邦政府改革の試みを失敗に導き、政敵に対し電話盗聴を行っていたことが発覚したからである。だが、これに代わって主導権を握った北部の市場志向リベラル派もまた、計画性に乏しい近視眼的な改革に終始し、1960年代末には改革理念そのものを破綻させるに至った。改革派内部にも対立が生まれていた。全国の自主管理企業体にまで権限を委譲するよう要求する地方主義者と、各共和国や自治州が権限を持つよう望む地方の党の主導部との対立である。ついに1970年、クロアチアで、党主導部は分離主義者たちと手を結び、反乱を起こした。この反乱はクロアチアの春と称される。セルビアの経済的搾取の改善と、ユーゴからの独立を要求した点においては、この反乱は1968年のプラハの春に類似している。この反乱と要求は連邦にとって当然承服できるものではなく、1971年、チトーはクロアチアの政府と党の幹部を追放してこの騒乱を鎮圧した。しかしチトーは、この事件の鎮圧が連邦を再びセルビア手動の中央集権、そして南部有利な計画経済の方向へ誘導する事態と、それによる南北対立の再燃を警戒し締め付けよりも緩和策を選んだ。その結果として生まれたのが1974年の改正憲法、いわゆる74年憲法であった。
 この憲法は、各共和国への権限委譲度が極めて大きく、結果としてユーゴ連邦は実質的には主権国家の寄せ集まり、すなわち連合国家と化し、そのため連邦政府は各国の利害を調整するだけの機関に成り下がり、形骸化してしまった。その上この憲法によってユーゴの経済的南北格差と民族間の緊張は、解消されるどころか増大した。
 連邦は、各共和国の調停を務め、軍事・外交面でのみユーゴを代表する存在となったわけなのだが、最大の問題は貨幣鋳造権と為替政策の決定権が各共和国に委譲されたことである。これによってユーゴは単一市場ですらなくなってしまった。その結果石油危機による全世界的な経済不況に特に南部の諸共和国は大打撃を受ける。
 
1981年春、不況による経済的苦境からコソヴォで大規模な反乱が起こった。この反乱は、純粋に経済上の問題に端を発している点において、アルバニア人の自治を求めて1968年にコソヴォで生じた民族紛争とは性質が異なるものであった。
このように南部が不況に苦しむ一方で、北部は順調な経済成長による豊かさを享受していた。スロヴェニアの場合、1995年の統計によれば、国民の一人あたりの国内総生産は8200ドルで、ドイツ・イタリアより東のヨーロッパ諸国では、ギリシアの8210ドルに次いで2位であった。3位はハンガリーで、4120ドル。西欧の水準では低い方ではあるが、独伊以東ではこの2国だけがぬきんでて高い数値である。対してコソヴォは1988年の統計においてさえ741ドルしかない。ちなみに同じ年の統計でスロヴェニアは6129ドルで、一人あたりの国内総生産はコソヴォの優に八倍であった。
 この南北の格差が、これ以降崩壊に至る各共和国の姿勢を決定することになった。すなわち、お荷物である南部を切り捨て、連合は維持しながらもEC、EUへの接近を強めたい北部と、危機の原因である経済的な分権を改め、強力な連邦制を再生させて以前のようにその恩恵に預りたい南部との対立である。なかでもセルビアは、連邦による単一市場の復活を望み、74年憲法の改正を主張した。これには74年憲法によって各共和国の分権化が進み連邦としての求心力が衰えていく中で、それまで同じユーゴスラヴィア国民としてクロアチアやボスニア・ヘルツェゴビナに平和に居住してきたセルビア人が、次第に迫害され始めたという背景がある。80年代後半、こうした地域からセルビアに亡命してきたセルビア人、モンテネグロ人たちは各地で集会を開き、憲法改正を訴えた。各共和国の自治権を保障した74年憲法体制の下では、セルビア共和国の外で迫害される同胞を護るために他の共和国に介入することすら許されないという状況に、セルビアは強い不満と危機感を持っていた。
 こうした情勢下に、セルビアに登場したのがミロシェヴィチであった。彼はセルビア人の民族感情に訴えることで支持を獲得し、連合を連邦へと再編しようと画策する。1986年に夕刊紙のヴェチェルニ・ノーヴォスティ紙によって、メモランダムと呼ばれるセルビア科学・芸術アカデミーの政治綱領草案が特集された。その内容は、セルビアが経済的・政治的抑圧を受けていること、その改善のために憲法を改正し、自治州をセルビアの傘下におさめるべきこと、などであった。その背景にあったのは上記の通り経済的・政治的抑圧へのセルビアの危機感だったのだが、他の民族、そして国際社会はこれを大セルビア主義の再来として警戒し、両者の溝は深まった。
緊張が高まる中1988年、74年憲法の修正案が可決された。1989年春にはコソヴォ自治州議会とセルビア共和国議会が共和国憲法修正案を可決。コソヴォは再びセルビア共和国内の一自治州に格下げされた。こうした連邦集権主義の復活に対し、再統合によって不利益を被るスロヴェニアは強く反発、1989年9月、スロヴェニア議会は独自に共和国憲法改正案を可決、連邦からの分離権を前面に掲げ対抗した。
 1989年、共産圏諸国が複数政党制を導入していくのに合わせて、ユーゴの諸国もまた、共産主義者同盟主導で複数政党制を採用する。そして1990年、スロヴェニアを筆頭に、戦後初の複数政党制の自由選挙が行われた。選挙の最大の争点は、スロヴェニアの主張する緩やかな連合制か、それともセルビアの主張する連邦制の復活か、である。選挙の結果、6共和国全てで民族主義政党が勝利し、セルビアとモンテネグロには連邦制を、スロヴェニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、マケドニアには連合制を主張する政府が成立した。
 
1990年10月、スロヴェニアとクロアチアの共和国幹部会は、新しいユーゴのあり方として、国家連合制を骨子とする構想を発表した。各国はほぼ完全な主権(分離権・外交権を含む)をもち、連合は軍事権を部分的に所有する(各国が独自に軍隊を有するが、対外的には協議の上結束して行動する)。そして、各国の関税同盟によって統一市場を形成する。また、将来ECに参加することを想定する。
 これに対し、同じく10月に連邦幹部会もまた、連邦再編のための構想を発表した。国名をユーゴスラヴィア連邦共和国と改め、共和国は連邦の憲法に抵触しない範囲内で分離権を持つ。しかし、警察権や外交・軍事・財政は全て連邦が監督する。
 それから数ヶ月にわたって、この2案を下敷きにした折衝が進められた。連合案を主張するスロヴェニア、クロアチアと連邦案を主張するセルビア、モンテネグロの間で、キャスティングボードを握ることになったのは残りの2共和国、すなわちボスニア・ヘルツェゴヴィナとマケドニアであった。
 
1991年6月始めの共和国首脳会議で、両国は折衷案を提出した。各共和国の主権と国連加盟権を認め、連邦軍と共和国軍を併存させ、通貨と銀行、議会は共通のものとするというもので、どちらの勢力にも配慮した良案であった。しかし、状況はもはや手遅れであった。北部の分離主義者は既に連邦に留まる意思など無かった。交渉は、戦争の準備が整うまでの時間稼ぎに過ぎなかったのである。
 6月25日、スロヴェニアは独立宣言を、クロアチアは自立宣言を採択した。翌6月26日、スロヴェニアの領土防衛隊がユーゴスラヴィア人民軍と衝突。これが、後にユーゴスラヴィア紛争として歴史に名を残す、泥沼の殺戮劇の始まりであった。
 何故彼等は武力に訴えてまで連邦からの分離を望んだのか。確かに彼等は、伝統的に分権主義を掲げ、中央の連邦政府に対抗してきたと言われる。だが、分権主義と分離主義は違う。彼らが求めたのはあくまで連邦内での自分たちの自治権拡大であって、元来連邦そのものからの分離ではなかったはずなのだ。この認識は、ユーゴスラヴィアが常にその外に強大な仮想敵を抱えてきたという歴史と無関係ではない。両大戦間期はイタリアの領土要求に脅かされ、そして冷戦時代はソ連と激しく対立した。 何より最大の反省点は、戦間期のセルビアとクロアチアの対立がユーゴを弱体化させ、ナチスの侵略を容易にしてしまったことである。このユーゴスラヴィアの歴史から、彼等はいかに団結が重要かを学んだはずである。彼らが分離を目指し、独立を志向することは、外敵に利する愚行でしかない。それ故にクロアチアはユーゴの中で分権主義を掲げたのであって、決して分離独立を主張したりはしなかったのである。
だが、1989年に、ユーゴに転機が訪れた。それまでユーゴ加盟国にとって共通の脅威として存在してきたソ連・東欧圏の崩壊。ユーゴスラヴィアにとっての主要な仮想敵が消え去ったのである。このことは共産主義という体制に疑問符を投げかけるというイデオロギー的な問題もあったが、ユーゴスラヴィアの諸民族が連邦制を維持する必然性があるのかという問題も生じたのである。そして、この問題に対しスロヴェニアとクロアチアは、連邦制はもはや不要、という解答を出したのである。
このたび、セルビア・モンテネグロ国家連合の崩壊が決定的となったモンテネグロ住民投票のニュースを聞きながら、このかつて人類の理性の勝利、民族対立の悲劇との決別と現実主義者達に称えられた国家が、しかしやはり民族という差異に逆らえず消滅していった悲しい歴史に思いをはせた。
結論として、敵の存在があったからこそ団結を維持できたユーゴスラヴィアにおいては、異なるアイデンティティーを持った民族を同一国民と思わせるためのイデオロギーであるナショナリズムは実在しない架空の神話のようなものであって、そこから体系化された国家もまたイメージとして描かれた想像上の共同体に過ぎず、しかも不定形であり、外への拡大と同様のエネルギーが、内への分裂という場合においても発生しうる、すなわち昨日の友が今日の敵という状況が出現することは必然であったのではないだろうか。
                                                                           


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