足利義満の国家構想・・・制度化されなかった「一体化」

 

冬月

 

ここでは、今日我々が知る事のできる足利義満の行動から推測し得る義満の目的、そしてその目的を達成するために義満が選んだ手段の評価を、学説等も交えながら考察していきたい。

足利義満がその治世を通じて第一に目的とした事とは、権力の主体が分裂していた日本を国家として一体化させる事であったと総括できる。
すなわち、当時の日本で主体性をもって存在していた三つのセクター、朝廷・武家・寺社、さらにこれらが南北朝に分裂して多くの権力が分立しているのを、自らが掌握し安定した秩序を構築する事が目的であり、国家の一体化による安定した秩序の構築は、経済の活性化や外国との公式な国交を可能にする。

室町幕府の前に存在した武家政権である鎌倉幕府は、あくまで武家のための政権であって、武家に対してその地位を保障するために存在する機構としての性格が強く、地理的にも朝廷から距離をおいた。
鎌倉幕府は武家の収入のために民を統治する規定を設け、武家の安全のために朝廷を監視していたが、これでは武家の権益を守るだけの機構に過ぎず、「日本」という国家に対して責任を持つ政権ではなかった。
この問題に蓋をしたまま、鎌倉幕府はその軍事力に依拠し、日本を代表する政権であるかのように振舞っていた。
その権力基盤も、「御恩と奉公」という、内戦による土地の再分配しか想定していない理論を前提としていた。
外国軍の着上陸侵攻に対する防衛戦争であった元寇の後、普段の内戦の感覚で、与えられるわけも無い恩賞の土地を幕府に求める御家人が続出した出来事は、鎌倉幕府という体制が抱えていた根本的な欠陥を露呈したといえる。

足利義満は、自らをして武家のみならず公家、寺社等日本の全ての権力の上位に立つ者たらしめようと考えた。
勿論、日本という国の一体化を体現するのは天皇であるが、天皇は強制力を持たない。
そこで、天皇の強制力の欠如を義満が代行して補完する事で、日本の一体化を実現しようとしたのである。

ただし、ここで述べる義満が推し進めた「一体化」とは、いわゆる「中央集権化」とはやや異なっている。
確かに、中央集権体制を確立しようと義満が努力した形跡が、彼の治世からは見て取る事ができる。
それは具体的には管領の細川頼之が整備した応安大法、五山制度に始まって、南朝勢力の脆弱化と懐柔工作による内戦の終結、京都の行政権・課税権の幕府一元化や延暦寺への取締りによる京都周辺の権力基盤の確保等であり、また将軍直属の常備軍としての奉公衆や、実務官僚集団としての奉行衆である。

義満が行った駿河国への富士山遊覧や、安芸の厳島神社参詣は、それぞれ地方勢力への権力示威行為だったと考えられる。
東方には一族の足利氏満が鎌倉公方として権力を握っており、また西国には中央に反抗的な守護大名大内氏と九州探題今川氏が存在した。
兵を伴っての遊覧や参詣ともなれば、現代でいうところの軍事演習による牽制と同様である。
さらに義満は実際にその軍事力を行使し、土岐氏、山名氏、大内氏など、政権にとって脅威となる地方勢力を平定・討伐していった。

これらの政策は表面的には18世紀にヨーロッパで進行した国家機構の組織化(the organizational qualities)、すなわち常備軍と官僚組織の整備、中央集権的課税権限、分散した地方権限の中央への移譲と類似している。
だが、実際には室町幕府のそうした制度的な支配が及ぶのは京都周辺に限定されており、諸政策をもってしても守護大名の連合政権としての室町幕府の性格を変える事はできなかった。
中央集権化は不徹底に終わった感が否めない。
むしろ足利義満はそうした制度改革よりも、様々な手段で強化した自身の権威を用いて既存の勢力を絡めとるように掌握する方法を選択し、国の一体化を進めていった。
義満は1383年には武家として初めて源氏長者となり、准三后の宣下を受ける。
1394年に将軍職を嫡男の足利義持に譲ると今度は太政大臣に昇進した。
その翌年には出家して道義と号している。
後に太政大臣職を辞してからの明との交渉でも、義満はこの道義の号を用い、「日本国准三后源道義」の名義で明に使者を送っている。
一連の官位や出家は、義満が武家・公家それぞれの権力の頂点に達し、さらに寺社勢力にまで影響力を及ぼせるよう出家し、朝廷・武家・寺社の三つのセクターを掌握するために精力的に動いていた事を物語っている。

また今日、足利義満が天皇・法皇の作法を自身の行為の中に取り入れていた事を物語る数多くのエピソードが残されている。
例えば義満は1396年延暦寺大講堂、1399年興福寺金堂・相国寺七重塔の供養を「御斎絵」(毎年正月皇居で国家の安全を祈って行われる仏事で、天皇が中心)に准じて行い、自分は法皇の「御幸」に准じて関白以下の貴族を従えて出席している。
この時本来天皇に対して行われる関白の拝賀式が、義満の邸宅である北山第で行われた。義満が西園寺家から譲り受けて造営した北山第は、今日でこそ金閣寺しか残っていないか、創建当時は金閣の他に、護摩堂・紫宸殿・公卿の間・天鏡間・泉殿・懺法堂・看雲堂・法水院等の建物群が配置され、実質的な国政の中枢として機能していた。
義満の寝殿は住居というよりも公式の式典を行う式場で、国事行為といっていい多くの公式な儀式がここで執り行われた。
義満はこの北山第を、法皇の住まいである仙洞御所を強く意識してつくらせたといわれている。
他にも義満は、自らが座る畳の縁に、繧繝縁という、本来は天皇や上皇などのみが使用できるものを使用していた。
1408年に後小松天皇が北山第に行幸した際、義満は天皇と同じ、繧繝縁の畳の上に座って対面した。

このように天皇・法皇の如く振る舞い、かつ朝廷の祭祀権や叙任権などの国事行為を代行し、晩年には溺愛していた次男・義嗣の元服式を宮中で親王並みに執り行った事などから、今谷明氏や田中義成氏らを中心に、研究者の間では足利義満が天皇家から王権を簒奪する計画だったのではないかという説が唱えられている。
この王権簒奪説は極めて刺激的で興味深い内容だし、また研究を通じてこれまで知られていなかった足利義満に関する史実が数多く明らかにされた事は大変な功績である。

ただ、説そのものの信憑性については、私見ではあるが状況証拠の集合体の域を出ていないように思われる。
確かに武家の人間が天皇の如き振る舞いをしたというのは、今日の我々の感覚では不敬であるが、しかし南北朝時代、日本という国家の権威の拠り所であるはずの天皇が二つに分裂して正統性を争うという我が国にとって前代未聞の危機的状況に国政を任された義満にとって、多少の無理をしても天皇の権威を自身の権威の強化に利用しつつ、安定した秩序を再構築したいと腐心したのは、いわばこの時代だからこその例外的な行為であって、それをもって「王権の簒奪」とは必ずしもいえないのではないだろうか。
また、「王権の簒奪」というような捉え方は、義満を武家という枠にはめて見た発想である。義満の家系を遡ると、六代前には後鳥羽上皇にあたり、後円融天皇は義満と従兄弟同士の間柄であった。このような血筋から、義満は天皇家との同族意識を持っており、従来の武家としての将軍とは異なる価値観で行動していたとも考えられる。

惜しむらくは、彼が実現させた日本の「一体化」は、彼の存命中しか維持できない、個人の権威に依存した限定的な性格に留まり、彼の死後、日本は再び権力の分散へと後退する結果となった事である。
J. David Singerの国家の内政に関する考察によれば、政治には個人の特性によって機能させている状態と、システムによって機能させている状態がそれぞれある。
足利義満の治世は、限りなく前者の、個人による政治に近かった。
彼は武士なのに天皇・法皇と同様の振る舞いができた例外的な人間であったが、天皇の国事行為を武家が代行するような状況はあくまで例外であって、長期的には秩序に反する。
義満はより常態化できるシステムの整備に力を注ぐべきであった。

ただし、たった一代で統治のシステムを整備しろというのも、過大な要求といえる。
義満が将軍の位についた時、幕府はあくまで内戦下の一方の政権であり、彼自身幼少期に南朝勢力に京都を占領され避難していた経験がある。
このような乱世の直後では、同盟関係にある有力守護大名達への統制が思うようにできないのも無理はなく、制度的な権力の集中は容易ではない。
また、義満は彼の戦略を理解し受け継げる後継者に恵まれなかった。あるいは、後継者の育成を怠ったという厳しい見方もできる。

もっとも彼の嫡男義持がもし父に忠実で、義満の戦略を継承しようとしたとしても、それは難しかっただろう。
将軍職を世襲する事はできても、足利義満個人の例外的な権威まで世襲する事はできない。
問題は、義満が征夷大将軍としてではなく、足利義満個人としての権威を行使していた点にある。
彼は自身の権威の制度化に興味が無かったか、あるいは失敗したといえるだろう。

 

参考文献

J. David Singer, International Conflict: Three Levels of Analysis, World Politics, Vol. 12, No. 3 (April 1960).

今谷明『室町の王権―足利義満の王権簒奪計画』(中公新書、1990年)

佐藤進一『足利義満―中世王権への挑戦―』(平凡社、1994年)



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