アメリカのベトナム後遺症

主要参考図書:松岡完『ベトナム戦争―誤算と誤解の戦場』(2001年、中公新書)

 

平成19年7月 冬月

 

1973年1月27日、パリ和平協定が正式に調印され、これによってインドシナ戦争以来27年にも及んだ同戦争に一つの終止符が打たれ、サイゴン大使館に駐屯する6000人を除き、ベトナムからアメリカ軍は撤退した。

アメリカ軍はこの戦争で全保有戦力の六分の一以上を投入、56555人(75年5月のフォード大統領の発表)の戦死者を出し、3744機の飛行機と4868機のヘリを失った。

そして戦費は約1400億ドルであった。


これらの数字は、遠いアジアの小国での戦争が、軍事的・経済的に超大国アメリカにとっていかに重い負担であったかを物語っている。

周辺地域におけるアメリカの世界戦略の一つに過ぎなかった介入が11年間にも及び、史上初めてアメリカが自国の能力の限界に直面した戦争となった。

そしてより深刻だったのはその道徳的価値観の適用の限界に直面した事である。外からどう見られようと、アメリカはウィルソン以来その対外介入において弱きを助ける正義の味方としての自己像を保ってきた。ベトナム戦争はアメリカのこの自己像を大きく傷付けた。


アメリカ国民の自信と価値観の喪失は、外に対して無制限に介入し拡大してきたアメリカを反省し、内に向いて立ち直るべきだという『カム・ホーム・アメリカ』という主張につながり、いわゆる『ミーイズム』の時代が到来する。

世論調査でアメリカは国際問題よりも国内問題を優先すべきだとするものは1974年には77%にのぼった。

人々の間では個人主義が蔓延し身近な問題ばかりに関心が向けられるようになり、政治への慢性的不信感から投票率も低落した。

政治不信は大統領選の当落にも影響し、専門知識を持ったワシントンの既成政治家が敬遠された結果、(CIA長官だったブッシュ父を除く)歴代大統領の多くがワシントン未経験を売りにした州知事経験者で占められる事態となり、結果アメリカ外交は、素人臭い、時に場当たり的な性格を強めるようになった。

最も重大な問題は、国外での軍事力行使、積極的対外関与政策への病的なまでの国民の嫌悪感であった。


第二のベトナムを警戒する世論に配慮して、アメリカの軍事作戦には大きな制約が課せられるようになった。

戦争の大義に対して国民が情熱的に支持する時間はかつてと較べて極めて短く、湾岸戦争でブッシュ(父)が国民の支持の持続を強く懸念して短期戦を求めたように、アメリカでは兵站よりも世論の支持の持続時間が戦略を決定している。

遺体袋に包まれて無言の帰国を遂げる米兵を見るとアメリカの世論がたちまちベトナム症候群を起こすため、紛争地域の米兵はいわば人質となってしまい、アメリカ軍は実際以上に脆弱とならざるを得ない。

こうした実情から、湾岸戦争で求められたのは短時間でかつ少ない犠牲だった。

大部隊を一気に投入する、圧勝後は素早く撤退する、血なまぐさい地上戦は避けて徹底的な空爆に頼る、最新の科学技術を駆使してベトナムとの時代の違いを印象付ける、そして情報、特に映像を管理して世論のベトナム症候群を抑制する、これらの条件がアメリカ軍の戦略の骨子となった。


湾岸戦争終結時、ブッシュは「ベトナムの亡霊はアラビア半島の砂の中に埋められた」と宣言した。

冷戦終結後アメリカは再び保守化の度合いを強め、ウィルソン的価値観の再認識が進行しているが、現実にはベトナムの後遺症は今日に至るも完全には克服されていない。

1992年アメリカは民族紛争による大量虐殺を止めるためにソマリアに介入したが不十分なまま撤退し、99年のコソボ空爆では、地上軍の投入にクリントンは最後まで抵抗した。

2001年の9・11事件という巨大な衝撃を受けてもなお、アメリカ国民からベトナムの後遺症が払拭されていない事をイラク問題に対するアメリカの世論が示している。

ベトナムの後遺症は21世紀に持ち越されたアメリカ合衆国の外交・軍事上の極めて重大な拘束要件であり、これを脱却する事が、今後のアメリカの課題である。



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