冷戦期・第三世界におけるアメリカの苦悶


平成19年6月 冬月

 

 第二次大戦後発生した東西冷戦構造の中で、西側陣営を率いて東側の共産主義と対峙する役割を担ったアメリカは、いわゆる第三世界において直面する、アメリカがその理念と矛盾した政策を行う事を強いられる状況に苦悶する事になった。アメリカのコミットメントが一定の成果を上げていたヨーロッパでは、ウィルソニアン・デモクラシーがヨーロッパの伝統的な勢力均衡を道徳的に補っていた。ヨーロッパにおいてはソ連の支配とは抑圧を意味していたので、アメリカの掲げる自由や民主主義、市場資本主義といった諸価値が現実主義と両立したのである。ところが、長年多くの国々が英仏などに植民地支配されていた第三世界では、これらヨーロッパにおけるアメリカの重要な同盟国が抑圧者になってしまっていた。アメリカは反植民地主義を含めた自国の理念に基づくこうした地域へのコミットメントと、ヨーロッパ方面における重要な同盟国である英仏を両立させなければならない苦しい立場におかれ、さらにはこれらの地域で起きている独立運動の背後でソ連が影響力を行使すれば『裏口において』冷戦に敗北する脅威に束縛され、結果的に複数の局面においてその両立に失敗した。

 

戦時中、反植民地主義的な傾向が極めて強かったルーズベルトは、戦後の第二世界という敵の出現を想定していなかった。彼が想定していたような戦後構想によって世界が安定した集団安全保障の枠組みに入るなら、戦後の植民地体制の崩壊を、それによって生じる秩序の混乱を気にする事無くアメリカの理想にとって望ましいものとしてだけ考える事が出来ただろう。だが第一世界と第二世界との冷戦という構図によって、いかなる理由であれ秩序の混乱はアメリカにとって望ましくないものになってしまった。植民地の崩壊によって力の真空が生じ、そこにソ連が介入する事態に備えなければならなくなった結果、アメリカは植民地体制を一方的に批判する余裕が無くなった。植民地において独立運動を戦っている現地のナショナリストが、ソ連の支援を受けて共産化する事態を防ぐためには、最終的な植民地の独立は認めつつもその独立はアメリカにとって望ましい形、すなわちモスクワにコントロールされかねない共産主義者を排除した独立でなければならなくなり、アメリカはこれらの地域への時として抑圧的なコミットメントを強いられる事になる。こうしてアメリカは従来のアメリカが支持してきた民主的な諸価値が、第三世界では西側にとって利益でなく損失となるという皮肉な状況の中で、望まずして植民地体制の共犯者とされてしまったのである。

 

一方の東側陣営の盟主であったソ連は実際のところ当初、西側が恐れていたような第三世界への能動型の関与、すなわちかつてレーニンが好んだような積極的な革命の輸出とモスクワによるコントロールを行っていなかった。スターリンは表面的には第三世界の革命を呼びかけていたが、実際にはこれら第三世界にソ連が介入する機会に対して慎重な行動を選択する、受動型の政策をとった。またソ連は当初影響力拡大の重点をヨーロッパにおいており、コミンフォルムにはアジアの共産党は加盟を許されていなかったし、インドシナの問題ではソ連はヴェトミン以上にフランスの共産党にも配慮しなければならないという、アメリカと似通った立場にあった。中東に関しては、ソ連は植民地国家でなかったがゆえにこの地域に関する知識に乏しく、またスターリンはこの地域はイギリスの領分だという勢力均衡論的な慎重さも有していた。

 

1949年の中国の共産化によってソ連は一歩前進してより積極的に第三世界の革命を指導・支援する『分業』戦略をとるようになったが、この『分業』もまた、東南アジア地域の革命運動に対する主要なコミットメントは中国が行うよう求めるものであり、ソ連は後方で支援するという性格を有していた。このようにスターリンが中国を利用した背景には、第三世界へのモスクワの影響力拡大を目指しつつも、ソ連のアメリカとの直接的な対決は避けたいという意図があったのではないかと行間から読み取れる。

 

しかし中国にも、革命国家でありながらソ連と同様に国際外交の舞台で大国として認知されたいという願望があり、東南アジア地域でのアメリカとの衝突も望んでいなかった。インドシナ戦争では戦場でヴェトミン側が大きな勝利を収めていたにも関わらず、ジュネーヴ会議ではインドシナ戦争の平和的終結のために中国は北緯17度線でのヴェトナムの分割に合意するという妥協を選択した。

 

中東においても反植民地感情が高まっていたが、先述のようにスターリン時代のソ連はこの地域に積極的に介入しようとはしていなかった。このように『第三世界』が一くくりにソ連の影響力拡大の脅威に晒されているという西側の認識はやや過剰なものがある。ソ連の介入に限らず、第三世界に分類されるアジア・アフリカ諸国の状況は実際には多様であった。だがこの時期ソ連と中国とが既に東アジア及び東南アジアで反植民地感情を効果的に利用していた事から、共産主義勢力の拡大に対して世界規模での封じ込め政策を行わなければならない中で西側陣営にそういった各地域の特質に十分に配慮する精神的余裕は無かっただろう。

結果、中東ではソ連が出現する前から西側はそれを警戒した封じ込めを開始する事となり、皮肉にもこの早過ぎたコミットメントがアメリカを中東におけるイギリス帝国主義という負の遺産の継承者として中東の人々に認識させてしまった。シオニズムへのアメリカの協力も、アメリカの立場を一層不利なものにし、ソ連に対する戦略的要衝であるはずだった中東がアメリカから離反する遠因となった。

 

アイゼンハワーは中東におけるアメリカの価値観を損なわず中東諸国との関係を失わないために、スエズ危機において英仏イスラエルよりもエジプトを支持したが、フルシチョフの国際世論への操作によって本来アメリカに与えられるべきスエズ危機での功績はソ連に持っていかれる格好となった。またアメリカはここでも冷戦の論理によって、英仏の植民地主義は支持できないが、英仏が撤退した後発生する力の真空も避けなければならないという矛盾した立場におかれ、その理念を制約された。エジプトのナセルはホー・チ・ミンやカストロとは異なり、ソ連に影響下にはいなかった。ナセルにとって重要だったのは長年にわたりエジプトを植民地支配してきたイギリスを排除する事であり、そのために必要とあればソ連も利用するというだけの事だった。冷戦という世界的な視点に立って中東の問題を考えるアメリカに対するナセルの見解は、1953年に彼がアメリカのダレス国務長官に対して語った以下の言葉に象徴されている。

 

ソ連は「我々の領土を占領した事が無い。しかしイギリスは七〇年にわたりここに居座り続けてきた。国民に向かって、千マイルかなたでナイフを握っている誰かを心配するあまり、六〇マイル向こうのスエズ運河で拳銃を構えている殺人者を無視することにした、などと話すことができるだろうか」。

 

このように共産主義への封じ込めよりも植民地主義への抵抗に関心を有する地域に対して冷戦の座標軸を強制しようとするダレス外交は、逆に中東において反米的な、ソ連に有利な状況を作り出す結果となった。これは中東のみならずインドシナにおいても共通して言える事であるが、第三世界において旧宗主国の撤退によって生まれる力の真空を即座に埋めなければソ連の介入を招くというアメリカの危機感からくるコミットメントが、インドシナではフランスの代わりにやってきた抑圧者、中東ではイギリスの代わりにやってきた抑圧者という現地の悪感情を招き、皮肉にもソ連に好機を提供してしまったのである。

 


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