廊下

come

「もし、もだよ。わたしがここに居ないとすれば、あなたはどうなってしまう?」

 と、彼女はたずねた。

ぼくはそのことについて考えてみた。

「きっと気も狂わんばかりに暴れ出すんじゃないかな?ぼくの大部分は君に依存しているから」

彼女は右腕で左腕をそっと抱いて、そして朝焼けにそまる月のようにほほ笑んだ。

「貴方ならそう言うと思った。とても期待どおり。」

彼女の腕が伸びてきて、ぼくの髪の毛をまさぐった。ぼくは目を閉じ彼女の指の感触を大事にしまいこんだ。ぼくはその感触を嬉しく思った。彼女の指はやわらかく親密さにみちていた。ぼくは彼女のためになら何をしてもいいだろうと改めて思った。たとえ彼女がいますぐ、ぼくに向かってむごたらしい死に方を要求しても、ぼくはそれにちゅうちょなく実行するにちがいない。

やがて彼女の指が来たとき同様、ゆっくりと離れていく。ぼくはその瞬間一種の空白間を覚えた。それは悲しいと言っていいような種類の空白間だ。だがぼくは、それがいずれ埋められるものだとわかっていたから、よろこんでその悲しみをうけいれた。次の歓びを悲しみが倍増してくれると知っているから。僕らはそういう予定調和的な悲喜劇を演じるのが唯一の楽しみであった。

 彼女は背中を見せ、個室の出口のドアをあけ、こちらを振り返った。奥の通路から白い光が差し込んでいた。一日に二回、ぼくはその光を目にする。彼女がやって来る時と、出て行く時。彼女のブーツがカツンカツンと音を響かせながら近づいて行くる時ほど歓喜することはなく、彼女が遠のいていく時ほど悲しいことはない。だけど、繰り返しになるけが、それは必要として割り振られたステップなのだ。恋愛をテーマにした演劇で、一組の男女が恋をし、別離し、そしてよりを戻すように。ぼくたちはそうやってほんの限られた時間の歓びを代用のきかない絶対的な喜びへと深めている。

 彼女は光を背にしてほほ笑んだ。乱暴といっていいくらいの強烈な蛍光灯の光に照らされているのに、彼女の微笑は淡い存在感をはなっていた。まるでそこだけ世界から孤立しているみたいに。

 通例では彼女が微笑みかけ個室の外にでたとたん、ドアが巨大な音をたてて勝手に閉じる。それは彼女の意に沿った行いではないのかと疑うことがある。ドアはあまりに唐突に、乱暴に閉ざされるからだ。彼女はまだ、もっと穏やかな、名残を惜しみながらの別れを求めているのだとずっと思っていた。そしてその事でいささかの怒りを覚えていた。そのたびにぼくはそんな横暴な開閉担当の人間に、一言二言文句をいってやろうと誓うのだ。

だが、今回ばかりは違った。ドアは開かれたままで、彼女は個室の外から微笑みつづけていた。ぼくはついに願いが叶えられたのかと内心期待した。開閉担当の人事変えにあったのかもしれない。あるいは辞職したのかもしれない。だがなんにしろ、目の前の扉は閉ざされず開かれている。ぼくは記憶から、いままで幾通りとなく思い描いていた「名残り惜しい別れ際のシチュエーションの数々」と書かれたファイルを取り出し、その中でこの瞬間に一番ふさわしいシチュエーションを選んだ。まず、彼女が微笑みかける。ぼくのほうも微笑み返す。彼女がなにかしら、繊細な事柄を口にする。ぼくはそれに相槌をうち、なにか気の利いて信愛にみちたことを言う。彼女の微笑みが少し深くなる。その深さはそのまま僕らの繋がりが深まったことを教えてくれる。愉悦にどうにかなりそうになりながら、ぼくはこの素晴らしい一場面を綺麗にしめようととっておきの笑みを浮かべる。その瞬間、ぼくたちは言葉や肉体といった野暮な代物から解き放たれて意識をとおして繋がることを知る。僕たちは渡り鳥が渡りの季節を知るように別れの時が訪れたのを悟りつつ、より多くの時間を過ごせないのを惜しみ、そして明確な終わりをもたない終わりを迎える。彼女が歩き去り、ドアがようやく、この場の繊細な空気を壊さぬよう、静かに閉ざされる。切なる余韻がぼくを包み込んでくる――

「ねえなんて素敵なんだろう」

 半ば陶然としながらぼくは呟いた。

「季節がめぐって来たのよ」

 彼女は微笑みを浮かべたまま、出口のところに立っていた。

「来るべきときがようやくやってきたの。それはずっと決まっていたことだった。まるで潮が満ちるみたいに。砂時計の砂がおちきってしまうみたいに。」

「そういうのってすばらしいな」とぼくは言った。少なくともこの世界の素晴らしいもののひとつとして名を連ねる資格は十分にある。

 ぼくがそう言うと彼女はクスリと笑った。ぼくも笑った。ぼくらは同じ星のもとに生まれてきたのだ。ぼくはそう信じた。

「こんどはいつ会えるのだろう」と僕は言ってみた。気が昂ぶっていたからそんな勇敢な質問をする気になったのだ。

だが彼女は、ぼくの望んでいたような返答を与えてくれなかった。彼女はただちょっと微笑みを陰らせ、

「さあいつかしらね」

と言った。

「わたしはてんでわからないわね」

「わからない?明日来てくれるんじゃないの?」

ぼくはたずねた。彼女は首を横に振った。

「というか、これが私たちはお別れなのよ。」

「お別れ?」

「そう、お別れ」

「それはいつまで?」

 彼女は苦笑した。

「期限なんてないわ。それが続く限りのお別れなのよ」

「それじゃ・・・君はもうぼくに会いにきてくれないのかい?」

「そういうことね」

ぼくはそれを彼女の意地悪だと最初思った。だが彼女の強固な視線は、それらがすべて真実なのよと語っていた。そのせいでぼくはおそろしく落胆してしまった。ああ、いったい彼女なしの生活なんてどういったものなのだろう。とても想像できない。ぼくは暴れるんじゃないかといた。でも実際に現実を前にするとそれはあまりにばかばかしくてとても実行する気なんてならない。いや、実行する気力がなくなるのだ。ぼくの四肢からはごっそりと力が抜け眼は絶望でおちくぼみ喉は悲しみに打ちふるえた。よだれと涙が所かまわず流れ足ががくがくと震えた。経っているのさえ不可能になのだ。ぼくはこれほど暴力的な悲哀ははじめての経験だった。

「泣いても仕方ないのよ」

と彼女は言った。そしてゆっくりと背中を向け、廊下の向こうへと歩き去った。永遠にさようならという意味のことを彼女は言った。子供みたいに泣き続ける僕の耳にはよく聞こえなかった。でも聞こえなくたってぜんぜん関係ない。さよなら、グッバイ、アディオス、アデュー……なんだって同じなのだ。

 

 

 

しばらくして泣きやんだぼくは、廊下にでた。廊下は他人行儀に冷たく白い照明にみちていた。ぼくはそのまぶしさに目を細めた。よくよく考えると、ぼくが個室からでたのは、実ははじめての経験だった。

 廊下の両側には無数のドアが連なっていた。それにはひとつひとつプレートがつけて数字が割り振られていた。手前から13579111315 …偶数を飛ばして、奇数しかない。奇数番号が果てしなくつづき、廊下の向こうに点になって消失している。

 ぼくは試しに一番手前の1と書かれた扉を開けてみた。もしかしたら、そこに消えてしまった彼女がいるかもしれないと思ったのだ。だがそこには彼女はいなかった。そして不思議なことに、扉の向こうにはまた廊下があった。ちょっと見まわしても、その廊下はさっきとまったく同じ構造の廊下だ。向かいのドアのプレートには1と書かれてあった。ぼくはドアをしめ、もといた廊下に戻って、ふたつの「1番」ドアを比較してみた。どっちもまるっきり同じ形、同じ材質の同じドアだった。ためしに、爪先でドアにひっかき傷を作ってからもう一度「1番ドアA」をくぐり、抜け出た先の「1番ドアB」の前に立った。傷をつけた同じ個所に同じ傷があった。なんだか頭の中がむずむずする。同じドアなのだ。

 

 ぼくは幾度かの実験と、慎重な考察によって、この廊下にはふたつの性質があることを知った。

まずひとつにはこの廊下には終わりがないこと。おそらく永遠なのだろうと思う。おそらく、というのは、もしかしたらもっと先に行けば終着点が存在するかもしれないからだ。だがそれ以上の追及は気力と体力が許さなかった。とりあえず、ぼくの調べられる限りでこの廊下に終わりはない。

ぼくの記憶が正確なら、ぼくが疲労困憊してその場でへたり込んだときのドアの番号は左が「23331」で右が「23333」だった。ドアとドアの間隔がおよそ3メートルなので、計算してみるとおよそ17キロ。歩いた時間は90分から120分くらいだろうか?とてもそうは思えない。時間が経過はもっと鈍重だったように思うし距離にしてもフルマラソンのコースを踏破できるくらいは歩いたつもりだ。いやもっとかもしれない。それにもかかわらず最初のスタート地点に戻ろうと試みると時間はほんの幾許かしかかからない。ドアの番号を「23329」「23327」「23325」「23323」と数えながら疲労困憊の肉体をひきずっているといつの間にか最初の個室が目の前にありドア番号は「1」を示している。ここでは時間は主観的なものではなく物質的で相対的なものにすぎない。ぼくはそのままもんどりうつように個室に雪崩れ込み、ベッドに身投げしてなにかを考える暇もなく眠りの世界に引き込まれてゆく。

2つ目はこの廊下には境界線も存在しないということだ。たとえばだが、ぼくが「9番」ドアを開けたとする。そしたらぼくは「11番」ドアから出てくる事になる。ドアの向こうは最初に証明したようにまったく同じ世界、同一の廊下だ。だが鏡の世界ではない。ただ「連続」している。なおかつ、これは横方向との繋がりという感覚より、オーバーラップと言った方が正確である。つまり、ドアを開けるごとに新しい世界にもといた世界が覆いかぶさり、結果ぼくはおなじ廊下に踏み入ることになるのだ。仮にそうしようと思って目の前のドアを開け続けるとどこに辿り着くかには興味があるが、おそらくなにもならないに違いない。ドアは果てしなく現れつづける。世界は同一でありつづける。ぼくはどこにも辿りつかない。91個目のドアを開いた時点でぼくはそのことを悟った。

 

「このままでは埒があかない。」

 

ぼくは91番目のドアにもたれかかりながら、白い照明を見上げていた。白い照明の配線はいったいどこにつながっているのだろうかと不思議におもったがそれはまた別のことなのだ。配電盤がどこかにあるのかもしれない。でもそれは、きっとまた知らない別の世界に繋がっている。別の世界にはまた別の廊下があって、別のドアを開け続ける別の迷子がいる。ドアが世界の境界としての役割を失った今、この世界でなにが起きても不思議ではない。ぼくは考え方を変えることにした。

「彼女はどこに消えたんだろう?」

 それについて、ぼくはひとしきり(しかし真剣そのものに)考えを巡らせた。最初に浮かんだのは、彼女はこの扉のどこかに入ったということだ。いまのところ、ぼくの開けたドアはすべて同じ廊下に繋がっている。しかし、ぼくの開けたのはほんの90とちょっとのドアだ。それも、実際に開けた番号は最初に手を伸ばした「1番ドア」と「3番ドア」をふくめ、ふとした気まぐれで開けた数か所しかない。少なくともここには1万以上のドアが存在するのだ。そのどれかに隠された正解があって、彼女はそのドアをくぐり抜けたと考えても、おかしいことではない。

 しかし、それをぼくはどうやって立証すればよいのか?ひとつひとつ、ドアを開けていけばいいのか?それしかないだろう。だが、それを終わるまでに、ぼくの意識は正気を保ってくれているだろうか?さっきも言った通り、このドアを開け続ける行程は精神的にひどくこたえる。けっきょく、ぼくが正解にたどりつく機会は失われるのかもしれない。やれやれ。現実とはあまりに無慈悲すぎる。

 

 

ぼくは91番目のドアから起き上がり、もといた個室にもどった。なにもまた91個ものドアを逆戻りしたわけではない。ただ91番目に現れた91個目の個室にもどったのだ。ベッドのシーツはそこで目を覚ましたときとまったく同じ皺模様をつくっていた。個室にはベッドの他に、なにもない。家具や調度品もなければ明かりもない。以前は毎日彼女が訪問していたのでそれでも不足を感じるなんてことはなかった。だが、もう2度と彼女が来ないと分かっているとその部屋はあまりに寒々しかった。シーツを頭からかぶって寒さを遮断しようとした。だが無駄だった。ここにはもう、ぼくを温めてくれるものは何もないのだ。

 

 

すり減らされた精神を回復させるためだけの眠りが覚めたあとも、ぼくは延々と孤独を感じ続けていた。まるっきり音のない不思議な孤独だった。ぼくの身中に毒が滲み込み、あらゆる体機能を麻痺させてしまったような孤独だった。高度な音響を備えたオーケストラホールで、ひとりシンバルを鳴らすような充たされきれない孤独だった。徹底的にぼくを追い詰めるために結集された、世界最高品質の孤独だった。ありとあらゆる形容が可能な孤独なのだ。ぼくはそのせいでしばらくベッドから這い出ることができなかった。

 

考えるな。 ぼくは自分にむかって叱咤した。  ひとりだと思うから動けないのだ。ひとりであることを一時的に忘れるんだ。

 

ぼくは枕に顔をうずめながら、枕に向かって「今日はなんてすばらしい日なんだろう!」と叫んだ。そしてもう一度、『王様の耳はロバの耳』のようになにかしら別段どうでもよいことをひとつふたつ叫んだ。それはぼくの声なのかいまいち自信がなかった。だが叫ぶにもひとりっきりだとネタはすぐ尽きてしまう。だからぼくはあのにくらしい開閉担当の人物にたいして話しかけた。「よう、今日もドアの開け閉め御苦労さん。ちょっと一緒にはなそうぜ」もちろん返事はなかった。開閉担当の人間は何処かのモニター室でじっと液晶画面を睨んだまま沈黙をまもっていた。

「まあいいさ。今日のぼくは特別誰かに話しかけたい気分なのさ。だから返事をしてくれなくたって勝手に話すよ。きっとぼくの言葉は君に届いているのだろうしね。そういうものだろう? 君はいつもいつも、ぼくと彼女の親密な時間をこっそり覗いて、そんでいつもいつも別れの演出を実行するタイミングを計っているのだろう? 役得としては上等だね。少なくとも、君は彼女のもっとも親しみのこもった顔を見られるのだから。君はいつもばったんどったんってドアをしめるよな。あれはちょっとどうかと思うぜ。もう少し、あれだ、思いやりのあるしめ方をしてくれもていいんじゃないかい?ぼくたちはいい加減永い付き合いだしさ。これくらいの融通をつけてくれもいいじゃないか。ねえ聞いているかい?これはけっこう大事なことなんだぜ。なんせ次の瞬間には、彼女がぼくのもとに帰ってきてくれるかもしれないからさ。もしかしたら上の意向とかなんとかめんどくさいことがあるのかもしれないけど、どうか君の裁量で改善できないものかね? ちょっと練習してみようか。ほら、ドア閉めてみて。」

 だがドアはだらしなく開け放たれたままいつまでたっても閉まらなかった。「やあどうしたんだよ?」開閉担当の人間は腕組みをしたまま、ものいわぬ彫刻のような無表情で画面の中でまぬけにたたずむ僕を睨みおろしていた。

「なんだ?機械の故障か?配線がいかれちまったか?ドアの開閉装置はいったいどうしたんい?居眠りして、まちがってヒジで押しつぶしたのかい?それならちょいとえらいことだよ。ところで、開閉装置というのはどういう構造をしているのだろう?スイッチ一つで閉じたり開けたりできるのかい?それとも、つまみを調整することで閉じ方を調整できるようになっているのだろうか?ぼくにはずっとここにいるからちょいとわからないなあ。そうだ、いま思うと、ぼくは生まれたときからこの部屋にいるくせに、自分の部屋のドアがどのように開け閉めされているのか、まるでわかっていなかったんだな。これはなかなか間抜けな話だな。ぜひとも一度君から事実を聞きたいよ。ぼくはもう少し身の回りのもろもろに興味をもつべきだったよ。なんて哀れな人間なんだ。君だって長い付き合いなんだから、少しは憐憫の心もあるんじゃないか?それなら、このかわいそうな男の教師となってくれよ。なんでもいいんだ。ぼくが知らなくて、君の知っている事を教えてほしいんだよ。頼むよ。長い付き合いだろう?」

 モニター室の男はしばらくぼくの言葉に耳を傾けながら、なにかのつかえをとるように小さく首をかしげた。ひどくエネルギーを節約しようとしているような動き方だった。彼はエネルギーを節約したまま、モニターマイクに手を伸ばし、おごそかに口を開いた。

「君はどうして自分が孤独なのか、ちゃんとわかっているのかね?」

 ぼくは首を横に振った。

「それが、まるっきり見当がつかないんだよ」

 彼はモニターを切った。ふと気がつくとベッドの上に新手の孤独が慇懃に腰掛け、こちらの様子をじっと伺っていた。孤独はまんじりともせずこちらを眺めつづけ、やがて小さくかぶりを振り、いずこからかシガレットケースから取り出した葉巻にシュッと火を灯した。彼はスマートでジェントルな孤独なのだ。

「一応ことわっておくが、わたしはただここに居るだけだよ」

 孤独は手慣れた様子で紫煙を吐きだしながらそう言った。分かってる、とぼくは答えた。ぜんぶ悪い夢だ。そう、ゆめなのだ……。

 

 それから幾時間、幾日、幾年が経過したのか、ぼくにはわからない。なぜなら彼女との接触が一切なくなったからだ。彼女は少なくとも日に一度、必ずぼくの閉め切られた部屋に訪れていた。それを失った今、ぼくの中で時間という単位は消滅しつつある。これでぼくにはなにかとなにかを区切る境界を本格的に喪失したのだ。境界のない世界ではぼくは僕であるという確かな手応えを見失う。無境界性がすべてを飲み込むのだ。それはまるでブラックホールのように。ぼくはなにも手をこまねいて時のすぎるままにしていたわけではない。ぼくは廊下の行けるところまで突き進んだ。結果的にドア番号はとうとう9桁まで到達することができた。片っぱしのドアをあけて回って幾つもの廊下を横断した。だが何かが変わったわけではない。けっきょくなにもないのだ。この先にゴールがある、もうひとつ先だ、ほらここを抜けたらぜんぶ終わるかもしれないぞ、と自分で自分を激励することに消耗しつくしただけだ。その上、つかれて個室のベッドがこいしくなると嘘みたいに一瞬なのだ。あともどりしはじめると個室はすぐ目の前にある。ぼくはなんともいえない虚脱感を覚える。帰るところだけ保障されて行きつく場所がないというのは人間を少しずつダメにする。ぼくだって例外じゃない。

ついにぼくは個室のベッドから一歩たりとも出歩かなくなり、なんともなしにシーツの皺の数を数え続ける日々を送るようになった。ぼくはほんきで、おそらく同じような悩みをもつ世界中のだれよりも深刻に、こう思った。――さあこれからなにをすればいい?

 

とうぜん、答えなどでるはずもない。ぼくは彼女を失った時点でなにものでもなくなったのだ。ぼくのすべては彼女にあった。ぼくの半身は彼女とともに消えたのだ。ぼくは突然ぽっかりと空いた余白に途方にくれた。孤独というのは自力で越えなくてはいけない壁だが、世の中には誰かと一緒に越えたいと思うような壁もたくさんある。いまのぼくがまさにそのようなかんじだった。ぼくには他人の手は差し出されない。

 

ぼくはベッドのうえで寝そべったままぴくりとも動かなかった。だからといって眠っていたわけでもない。でも起きているわけでもない。ぼくは夢に馴染みきれない中途半端な現実の中にいた。死に切れない魂みたいな存在だった。ぼくは、自分が「なんでもない」存在なのだと強く感じ始めていた。ぼくはぼく単独ではどこにも属していないのだ。ぼくはどこかでぼくという存在を拡充する必要があったのだ。そのことにもっとはやく気付かなかったのだろう?そう思うとすっかり気が滅入った。ぼくは瞼をおろし思考を放逐してじっと瞼の裏の真っ暗闇に身を沈めた。でも眠っているわけではない。骨と肉と雑多な液体成分で構成された体だけがそのつもりもないのに動いている。眠り方にもいろいろある。

 

 

ぼくはふと、彼女との楽しかった過去を振り返っていた。

今考えても、あれは嘘みたいな時間だった。あのとき彼女はとても親密で、ぼくたちはとても近しい関係だったのだ。ぼくからは彼女にいっさい触れようとしなかった。それは正しくない行いだと感じていたからだ。ただ彼女の撫でる手の感触だけが好きだった。ぼくはその手の感触をいつまでも記憶することができた。彼女が髪をくしゃくしゃと掻きまわすとき、ぼくは例えがたい幸福にひたることができたのだ。それがなぜ、急に失われてしまったのか、ぼくには理解できない。なぜ幸福な世界を幸福なまま置いておいてくれない?彼女は季節がきたと言っていた。季節とはなにかしら巨大なシステムのようなものなのだろうか?「くそくらえ」だ。それが決まっていることだと思うと余計に腹ただしくなる。それではまるで、ぼくがもてあそばれているだけみたいではないか。いじくられて突っつきまわされて最後にはこんな苦しい思いをしていると思うと理不尽だ。それがまかり通っている現実はもっと理不尽だ。いちど思いっきりぶっとばしてやりたい。ぼくは誰もぶったことはないけどきっと躊躇いはないだろう。いまのぼくは心底怒っているのだから。さあ、こいよ。俺がなにもできない臆病者と思っている奴は、いますぐ出て来い。ためしに一発ぶっとばしてやる。そのまま本命もぶっとばしてやる。さあ、こいよ。いつでもいいだぜ。おれは殴り方を知っているんだ。ぼくは行き場のない怒りをベッドのシーツに叩きつけた。

 

「いたいっ!」

 

とつぜん、ベッドの端のほう――腕のあたりで悲鳴がした。ぼくはおどろいて視線を巡らした。が、そこには「いたいっ!」と悲鳴をあげるようなものはなにもなかった。孤独さえいない。孤独は唐突な他者の存在に腰をぬかしてどこかへ飛んでにげてしまっていたのだ。

 

「いたいです、重いです、す、すみません、く、くるしいのです、はやく…お手を…」

 

手? ぼくはふと腕の下になにかを敷いていることを感じた。拳の下で、なにかがバタバタと身悶えしているのだ。ぼくが慌てて手をどけると、そこには一匹のアリがべったりと潰されかけていた。六本のせわしない脚を持ち、三つの体節を備え、やや赤みを帯びた黒色をしている。見た目はごく普通のアリなのだが、普通のアリよりはややサイズが大きかった。だが、他の部分が徹底的して凡庸なのでサイズの相違はたいしたことに思えなかった。ただそのアリが他のアリと一線を画く決定的な違いは、人語をしゃべれるというところだった。「ああ、助かりました。わたくし、もう少しでお腹のなかのものをぜんぶ口からはかなくちゃいけないところでございました」とアリは礼を言った。アリはひぃひぃと苦しそうに息をしながら、それでもちょっとずつ6本の足で立ちあがり、二本の触覚と無数の複眼をまっすぐこっちに向けた。その立ち姿にはアリにしてはどこかしら気品を感じさせるところがあり、はずいぶん凛々しかった。 ……凛々しい?気品?アリのくせに?

 

「おい、君は何者なんだい?」とぼくはたずねた。たずねてから、ここ最近でじぶんが初めて会話する相手を得たことにふと気が付いた。でもさしてうれしくはない。気品にあふれ凛々しくしゃべるアリと話して、どうしてうれしくなれるというのだろう?

「申し遅れてしまい、申し訳ございません」とアリは言った。えらぶるところももったいぶるところもない実に率直な話し方だった。そこにはある種の誠意がこもっていた。ぼくは少しこのアリに好意をもちはじめた。

「わたくしは『まんぷくアリ』と申します」

「まんぷくあり?」

「そう、『まんぷくアリ』ございます。」

「まんぷくありっていうのは、どういったアリなんだい?」とぼくは聞いた。

「たいしたものではありません。」 アリは相変わらず淀みなく流れるように言った。「世間一般のアリたちがそうであるように、わたしたちは群れを作って生活しています。巣はちゃんと土のしたに作ります。他のアリたちがそうするように、この小さな身体に見合ったミニマムなアリ的思索にふけったりミニマムな悩みを抱えたりします。ときにはアリ的な憂鬱に陥ることもあるでしょう。そういうときは、アリとしてまっとうな気晴らしなんかをします。仕事に集中するだとか、一晩寝て綺麗さっぱりリフレッシュしてしまうとか。さまざまな点でわたしたちはたいした存在ではありません。」

「でも世間一般のアリはヒト語を話したりはしないぜ」

「そのとおりでございます。」

まんぷくアリは深呼吸をしてから、別段自慢する様子もなく淡々と言った。「そこが、『まんぷくアリ』と世間一般のアリさん方との違いなのです。」

「世間一般のアリたちがしないことを、わたしたちはします。ただし、世間一般のアリたちが行うことを、わたしたちは一切しません。わたしたちは『まんぷくアリ』という独立したカテゴリーなのです。おわかりいただけるでしょうか?」

「…まあ、なんとなく。」

 ぼくはそう答えたが、実のところあまりよく分かってはいなかった。彼にはアリにしては少し雄弁すぎるのだ。ちょっとした弁舌家と呼んで差し支えないくらいに。――たとえ、彼らが世間一般のアリ達とは異なるカテゴリーに属していたとしても。

「あー、…それで、そのまんぷくアリさんはいったいどういった要件でこんな場所にきたのかな?」

 ぼくはたずねた。

「わたくしは使者として遣わされたのです」

とアリは答えた。使者だって?いったい誰の? ぼくはそれについて尋ねたが、彼はそれに答えるかわりに、持ち上げていた触覚をうなだれるように下ろした。そのことについてぼくは何も答えられない、というように。

「わたくしにはお前様にお伝えしなければならないことがあってこちらに参らせていただきました。」質問に答えないまま、まんぷくアリは言った。なにかな、とぼくは言った。

「また、季節がめぐろうとしています。」

 アリは六本の脚をしっかりと揃え、背筋をぴんと張り、厳かに口をひらいた。

季節ときいて思い浮かんだのは、脳裏に浮かんだのは彼女が去る直前に言ったことだった。その時、たしか彼女は「季節がめぐってきた」と言っていたのを覚えている。

「季節というのは、なんのこと?」

「季節というのは、良くも悪くも我々の頭の上に訪れるものです。」とアリは言った。

「誰かはそれを運命といいます。ある人は宿命ともいいます。ていのいい楽天家は必然と偶然という分類でひとくくりにします。少し人生に悲観的な見解を持つ方なんかは業と呼んだりもします。しかし、我々はそれを季節と呼びます。それがもっとも正しく、もっとも多くの意味を抱えることができると我々は知っているからです。」

 ぼくはそのことについて少し考えてみた。

「つまり、季節というのはなにかを表すメタファーなんだ?」

「そのとおりです」とまんぷくアリは力強く頷いた。「ある種の事柄や深刻さは、このように暗喩として語られることでもっとも真実に近づくことができるのです。」

 ぼくは少しだけ自分の考えがまとまっていくのを待った。季節とは訪れるものであり彼ら固有の呼び方であり暗喩である。そしておそらく、その意味するところをぼくが気付かなければならない。そうでなければわざわざ暗喩という婉曲な形式は使われたりしない。それが表そうとしているのは摂理なのだ。夜がきた、つまり太陽は沈んだ。というような。

 ぼくは考え、とある仮説に到達した。

「もしかして…君は彼女の遣いできたのか?」

「それについて、わたくしは何もお答することができません」とアリはきっぱり言った。「なぜならあなたのいう彼女がわたくしの知っている彼女とまったく同じかなんてぜんぜんわからないからです。貴方の彼女への認識はあまりに抽象的であり、抽象的なモノを、我々は自身と他者で共有することなんてできはしないのです」

もっともだ、とぼくは感心した。彼は実に物事を正しく認識している。

 

だが今の発言でこちらの仮説が死んだわけではない。

 相変わらず、季節についてはよく分からない。でも彼女がわざわざ使者を発てて季節の事を教えたということは、ぼくと彼女に関する重大な案件が含まれているということだ。そして僕たちにとってこれ以上になく重要な案件というと、ひとつしかない。ふたりが、ふたたび出会うこと。つまり、季節がめぐってきたとは、ぼくと彼女がふたたび会う時が来るということを示唆している可能性が高い。いや、それ以外あるものか。彼女は季節が来たから去り、新しい季節が来たら帰ってくるのだ。運命。宿命。歯車。脳の血管に血が巡りはじめるのを感じる。ぼくは興奮している。ここ久しくなく。

ぼくは熱っぽくなった頬をなぞり、室内に常駐している淡い闇を睨んだ。闇は前ほど見通しが利かない代物ではなかった。ほのかだが、希望のきざしがうっすらと現れはじめているのを、ぼくはたしかに見てとった。

「たしかに、君の答えられることじゃないかもしれない。でもお陰で多少なりとも希望ができた。そのことについてはお礼を言わなくちゃいけない。ほんとうに、ありがとう。

「いえいえ、わたしは任された仕事をこなしただけです。」アリはもじもじしながら、伏し目がちに顔を伏せ、六つある足の一本で平たんな頭頂部をなぞった。照れているのだ。ぼくはそれを見てちょっと微笑ましく思った。彼はわりかし純粋なんだ。

 

「次の季節がめぐってくるのは、いつなのかな?」

とぼくは聞いた。

「それが、ぜんぜんわからないのです。」とアリは一転、感謝された矢先なだけに申し訳なさそうに答えた。

「季節というのは、巨大な歯車の乱喰歯のひとつのようなものなのです。それはいつか必ず訪れると決まっています。ですが我々がその歯車の運行を関知することは不可能なのです。それが、あまりに大きすぎて、我々は全体像を認識しきれないのであります。ちょうど、ごく一般的な大多数のアリたちが人間社会についてほとんど無知であるように。」

 そしてぼくたち人間が彼らの属するアリ社会についてほとんど無知であるように。ぼくは心のなかでそうぼくは呟いた。ぼくはアリの社会にふつうのアリとまんぷくアリの二通りが存在するなんて想像したこともないのだ。

「ですから――」アリが言葉を継ぐ。「わたしがご忠告さしあげることができるのは、お前様がいつ訪れるかもしれない季節の時に備えて、しっかりと心の準備をしておくことをお勧めすることだけです。なにせ、季節というのは、ほんとうに唐突にやってくるものなのなので」

「ありがとう。わかったよ。心の準備。うん、問題ない」

 それから、ふと思いついたことがあって、ぼくは一にも二にもなく勢いのままアリに質問してみた。

「ひとつだけお願いがあるんだ。」

「なんでしょう?」

「ぼくが何かを決定するまで、君も一緒にいてくれないか?こうやって話し相手がいると、なにかしら心強いんだ」

 アリは少し思案のあと、沈黙したあと、にっこりと笑って――少なくとも、人間ならばにっこりと笑っているはずの穏やかさで――こう言った。

「それくらいなら問題ないでしょう。わたしも時間はありますし、少し貴方に興味ももちました。多少仲間のもとに帰るのが遅くなっても、問題ないでしょう。」

「そうこなくっちゃ。ありがとう」

「いえいえ」

 そう言ってアリは頭を掻いて微笑んだ。まんぷくアリとは表情豊かなアリなのだ。

 

 ぼくはそれから過ぎる毎日を、身体を動かしたりまんぷくアリと話をしたりして過ごした。まんぷくアリはぼくの知らないアリ社会についていろいろ聞かせてくれた。それはぼくの想像したこともない不思議な世界だった。かつどこかしらソリッドな認識にささえられた、現実的な世界だった。ぼくは無知だから彼のいうことのほとんどを理解しきれなかったけど、それでも大まかななり立ちみたいなものは理解した。つまり、アリというのは僕らがもっているイメージのようにがむしゃらに働くのではなく、ある階層と目的に応じて働くのである。例えば彼らの中には使役するものと使役されるものとがいる。あるいは行使するものと行使されるものがいる。そして産生するものと消費するものがいて、本を読む者と本を焼き捨てるものがいて、そういった社会秩序の保持に奔走するものにキップルを増そうと者とするものがいるということ。

「キップル? キップルってなんだい?」

「つまり、役に立たなくなった、不要なものの総称なのでございます」

 アリはそう言って、小さくため息を吐き、ぼくの腹筋運動をまねるのを諦めた。彼の体節は折り曲げたり伸ばしたりを繰り返すのに適した方向へ進化していないのだ。彼はベッドサイドに腰掛けてぼくが身体を折ったりねじったりするのを興味深そうに眺め続けた。

 まんぷくアリの広範な社会的見識と比べると、ぼくの話せることなんてほとんど何もなかった。ぼくは長い間この部屋とそこに連結する廊下から出たことがなかったし、彼女との蜜月を別にすれば、ほんとうに誰一人として会ったこともないのだ。ぼくは他人やその他の社会の決まりのようなことは彼女を通して感じるだけだった。でもそれらは、ただ僕の中を通り過ぎて行くだけだ。そういうのもあるのだな、と。でもそれはぼくとはあんまり関わりないことさ、と。 ぼくが彼との会話の中で言葉を探そうとしたとき、そこに適した形がなくて何度か絶望的な気分に陥ったことがある。そのたびにぼくは思った。ぼくの世界はアリの巣より小さいんだ、と。だがまんぷくアリはぼくの話を喜んで耳を傾けた。それが社交辞令かもしれないけど、とにかく彼は喜んでいるように見えた。彼はぼくの運動につよく興味をそそられるみたいだった。ぼくはひとつひとつ動作を示して、その期待される効果について解説した。彼はそれが実に気にいったみたいだ。

「わたしたちには、気晴らしに身体を動かすという習慣がないのです」

と彼は言った。

「わたしたちの社会では気苦労や不安といった精神的なストレスがたいへん多く、それをわたしたちは眠りや雑談や、あるいは極々軽い哲学的会談によって発散します。肉体をつかって体調を整えるというのは、あまり頭にう鞄ののです」

「体の構造が違うのかもしれない」とぼくは言ってみた。アリと人間ではどう見たって出来から違う。「君たちは身体を動かして肉体をメンテナンスすることを前提にできてないのだろうね。」

「そうかもしれません。」アリは珍しくなにか考えるような態度を見せた。触覚をおり、ぼくが不安になるとつま先で床をたたくように、六本の脚を少しずつ上下させた。「我々はついつい形而上的思索に陥りがちなのです。それが我々のわるいところです」そういって彼はちょっと苦笑してみせた。

「ぼくはアリに生まれればよかったのかもしれない」僕はふと思い立ってそんな事を口走った。

「適材適所。適者生存。」アリが言った。彼にとって珍しく単語だけで構成された文章。「我々はいろいろな存在に変化できます。我々はさまざまななにかへと移り変わっていきます。でも生まれた時からの形質、あるいは根っこのようなものはどうやっても変えられません。なぜならそれがもっともお前様に適した形なのですから。」

「うん、そうかもしれない」

上の空でぼくは頷く。

 

 

 季節がやってきたのは、まんぷくアリが先に示唆したとおりに唐突だった。予告も予兆もなくそれはドアからやってきた。ベッドの上でうたた寝をしていたぼくは驚いて飛び起きた。急な動作はベッドサイドテーブルで眠るまんぷくアリを驚かしてしまったようだった。

「はい!?はい!?あわわわ…」

 と、彼は無意味なことを口走りながら辺りをみわたし、ドアのところに季節が立っているのを認めた。彼はそのまま、いきなり重力が増したみたいに重苦しく押し黙り、やってきた季節をじっと睨んだ。ぼくには彼の心が警戒の黄色信号を示していることがわかった。ぼくはいつかアリの言った事を思い出した。たしかに季節は来た。でもそれが良い季節だとは限らない。

「ずいぶん遠くからやってきた」

 沈黙の均衡をやぶって季節が口をひらいた。重苦しく、いささか物を知りすぎたというような声質だった。彼は長い道程の中で少なからず消耗しているようだった。全体として長い旅を経た結末にふさわしくよれよれだったし、拗ねたようなボロをまとっていた。ただそれでもたしかに威厳のようなものはちゃんと確保していた。ただやはり少し消耗しているだけ。彼は気もない視線が室内をぐるりと一周しベッドの上のぼくの上でぴたりと静止した。彼はじっと腕組みをして漠然とぼくという人物を値踏みしているようだった。ぼくの着ているシャツは胸のところまでめくりあがり、髪はぼさぼさで、不精髭なんかを生やしていた。おまけに今日にかぎってなんだか寝苦しく、額には寝汗が光っていた。少しだけど臭いまでさせはじめている。醜態といっていい。彼はそんな僕の醜態をみて「だが」や「しかし」といった留保条件を探しているようだったが、とうとうなにも見つけられなかったようだ。「どうしよもない」というふうに首を横に振った。なんだかぼくの全部を否定されたみたいだ。惨め。

 

彼はなにかしらタバコに類する嗜好品に飢えているみたいに見えた。だがタバコなんてないのだ。それは彼がここまでやってくるまでの道すがらぜんぶ吸いきってしまったのだ。彼はそれを吸わないわけにはいかなかった。だが今はその事を後悔している。彼が乾いた褐色の視線の中で溜息をつくのがわかった。なぜ一本でも後の楽しみにとっておかなかったのだろう?なぜそういう考えが起きなかったのだろう?道はまだまだ果てしなくつづくのに。

 

「やあ、季節がきたぜ」と、彼は戸口に立ったまま、乾いた声で告げた。「ピカピカの最高級品というわけじゃないが、まあ辛抱してくれ。おれだって、もう何十何百と尋ね歩いているんだ。自分でもちょっとばかし仕事熱心すぎると思うが、そうしないわけにはいかないのだよ。そういう決まりだから」

「悪い季節ではないようです。」とまんぷくアリは緊張をといて言った。

「少なくとも、いきなり暴力的になったりするタイプではないという意味ですが…」

「暴力?」ぼくはおどろいて尋ねた。「いきなり拳骨が飛んでくるなんて聞いてないぜ?」

「少なからずそういう仲間もいる」季節が弁解するように言った。「そういった問題はたしかにある。だがそれは周辺にまつわる微小な問題といっていいようなものさ。季節というのはコールガールみたいにチェンジの一言で取り替えられるものじゃない。問題なのは当人の心の準備だ。そうだろう?」

「そのとおりでございます。」まんぷくアリが頷く。「季節とは受け入れるものなのでございます」

 そう言って、まんぷくアリは季節とぼくを交互に見た。まんぷくアリが季節とぼくの両方に向かって話しているのだということがわかった。でもいったいどうすればいいのだろう?受け入れろといわれても、ぼくには事態がさっぱり飲み込めないのだ。

「さあ、ちゃっちゃと終わらせてしまおう。準備くらいはしているんだろうね?何も今からごそごそやられちゃたまんないよ」

 季節は戸口に寄りかかって休息をとりながら、腹の底からこみ上げた欠伸を仕方なさそうに噛み殺した。いま初めて、ぼくに選択のときが訪れるのを悟る。誰かがぼくの決定を待っている。

「でもどうしたらいいんだろう?」

「季節についていけばいいのです」

 ぼくは途方にくれてたずねるとまんぷくアリはそう諭した。

「彼が案内してくれます。お前様はただ季節におとなしくつき従っていけばいいのです。それが第一歩です。そこまでは決まっているのです。ですが、その後の進展は、そのときどきによりけり、です」

「君も一緒にきてくれ」

ぼくは咄嗟に頼んだ。ぼくひとりだけでぜんぶを正しくやりとおせる自信がなくなったからだ。でもまんぷくアリは力なく首を横に振った。それが拒否の意思表示であると理解するまで、信じられないくらい長い間が必要だった。

「残念ながら、わたくしがしてあげられることはここまでです。」とまんぷくアリは言った。「この先はとても個人的な領域なのです。お前様がお自身で解決なさらなければならない問題が野ざらしになった世界です。正直、とても過酷な場所です。今だから言えるのですが、あの時お前様に引き留められて了承したのは、その時のお前様ではこの先の困難に耐えられないと思ったからなのです。その時のお前様には決定的に力が欠けておりました。それがどのような力かというと、つまりは意志の力というか、生きる力というようなものです。一種の生命エネルギーです。それがほとんどと言っていいほどかすれてしまっておったのです。わたくしはそれをこのまま季節を迎えるのは崖から幼子を投げ落とすようなものだと判断しました。ですからわたくしは居残ったのです。お前様の生命エネルギーの回復の一助となるために。

勘違いされたくないのですが、わたくしは今更このようなことを告白するのは何も感謝されたくてではありません。この通告が最後の総仕上げなのです。お前様はこの時間のうちにだいぶ回復されました。自分ではお気づきになられないかもしれませんが、ずいぶん人間らしく肉付きのついた身体になりました。汗をかき髭がのびるようになりましたし、眠りを必要とするようにもなりました。思いだして下さい。以前のお前様は汗もかかなければ髭も伸びない。眠りも必要としない。そういうことがまったくなかった。つるつるの、きれいすぎるくらい整っておったのです。わたくしが回復させるというのは、そういうことです。お前様を観念的な世界から現実的な世界へと少しずつ回帰させることだったのです。むろん完璧とは申せませんが、それでいいのです。現実とは完璧でないことです。残りをどうするかはお前様の問題なのです。わたくしや季節が申す心の準備とはそのことなのでございます。そして、わたくしがこれまでのすべてを打ち明けることが、その最後なのです。

 さあ、お前様、お立ちになって。季節が待っております。そろそろ行かなければなりません。おそらくこれがわたくしとお前様のお別れでしょう。お前様の幸運を願っております。短い生涯のうちのさらに僅かばかりの時間をこうして御一緒したのですが、お前様と一緒にいた時間はたいへん貴重で喜ばしいものでありました。わたくしは知らず知らずとお前様に好意を抱くようになったみたいです。月並みですがお前様のことは決して忘れたりしません。お前様にならった腹筋運動は仲間にも伝授しようと思います。お元気で!さようなら、さようなら!」

 身体を持ち上げ触覚と前足を精いっぱい振りながら別れを告げるまんぷくアリにぼくは手を振って応えた。直後にバタンとドアが閉まってぼくの視界からまんぷくアリが遮断された。ドア係りはふたたび職務に戻ってきたのだ。

 前を向くと白色蛍光灯で照らされた、終わりのない廊下を歩く季節の背中が見えた。それを駆け足で追った。ぼくと季節は2メートルくらいの間隔をあけてひたひたというタンペイな靴音を響かせながら歩いた。ぼくらは黙々と脚だけをうごかしつづけた。そんな状態を長く続けるのはかなり息苦しいことだった。自分以外の他人がいてその両方が押し黙っているというのは実に気味悪いことだったのだ。季節はそんなことまったくへっちゃらみたいだけど…。

「ねえ、あんたはこの廊下を通ってここにきたんだろう?」ぼくは沈黙に耐え切れずそのば限りの質問をする。

「まあね」季節は前をむいたまま答える。

「ということはこの廊下はどこかにつながっているのかな?」

「どこにも行きつかなければ、それは廊下じゃない」

「まあそうかもしれない。だけどぼくが探した限りでは廊下はどこにもつながってなかったんだ。ずっと続いているだけだった。廊下の先にはどうなってるの?」

「一概にはいえんな。それはどこでも繋がっているしどこにもつながっていない」

「なんだか難しそうだ」

「うん、まあ」

「どこまで行けば次の場所なの?」

「つけばわかるよ」

「君はどれだけあるいてきたの?」

「さあ」

「仲間の季節はどんなの?」

「いろいろ」

「ぼくたちはいまどこに向かってるの?」

「あんた、少ししゃべりすぎてるよ。少ししずかにしようや」

 しばらく歩いていると、とつぜん彼が手近なドアをあけ放ち、その中に吸い込まれるように滑り込んだ。ぼくは最初季節がぼくを驚かそうとそんなことをしているのだと思ったが、よくよく考えるとそんなことありえない。彼がぼくを驚かせる理由がぜんぜんないじゃないか。ぼくは彼を追ってドアに入った。ドアの向こうはいつもの、果てしないドアのつづく世界だ。幾億ものドアが互いに顔を突き合わせている世界。ぼくが廊下(a)から廊下(b)に抜けると同時に億万のドアのどれかひとつが開いた。音を頼りにそちらを向くと少し離れた場所で開ききったドアが壁で打ちどまってしずかに揺らめいていた。ぼくはそのドアに向かって猛然と走り寄ってくぐりぬけた。別の廊下に出た時にはすでにドアの開閉音がして音の先でドアプレートがこちらを向いていた。季節の姿は見えない。ぼくは咄嗟に悟り、そのことでぶるりと身を震わせた。ぼくは季節を見失おうとしている。

 次のドアを追いかけた時も季節の姿は見えない。開閉音と、開かれたドアだけが残されている。次こそ、次こそ季節がぼくを待ってくれていることを願いながら、5番目のドアを抜けた。その瞬間、いままでひとつしかなかった開閉音が急に一億倍に増え、次には一億のドアが一斉に閉じた。その大音響にぼくはみじかく悲鳴をあげその場にへたり込み、雑踏に似た一億の音響が遠ざかっていくのをじっと待った。音響がとおざかったあと、立ち上り、廊下の左右を見渡した。ドアはいずれも開かれていない。すべて閉ざされている。ためしにちょうど目の前の「1235」番のドアノブに手を伸ばした。だがドアノブがつかめない。すぐに理由がわかった。実物のドアは、いつの間にか精巧に描かれた絵に変化していた。もうドアはドアであることさえ辞めてしまったのだ。目の前がくらくらしてぼくはドアに(正確には、壁に描かれたドアの絵に)もたれかかってずぶずぶと腰を降ろした。この時点で、ぼくの目的はほとんど失ってしまってしまった。季節についていけば彼女に会えると思っていたのに、それさえもう不可能になった。ぼくは壁を背にして膝を折り、手で目を覆った。もしかしたらまだあの個室には帰れるかもしれない。でもあそこに戻って、いったいどうしようというのだろう?ぼくはこれからどこに行けばいいのだろう? ぼくは目を覆ったまま壁に描かれたドアの絵の上を取っ手を探してまさぐった。もしかしたら、そこにまだとっかかりがあるかもしれない、と思ったのだ。だが取ってはなかった。それどころか壁さえなくなっていた。驚いて目をあけると壁は灰色の塵となってサラサラと崩れ落ちていた。よく見ると廊下全体が崩れ去ろうとしていた。まるで急速に風化が進行していくみたいに。

 ぼくは慌ててまだ残されている足場に這い上がった。だが直に足場も崩れ去った。幾万もの床が灰色の微粉になり、広大無辺な、暗黒の空間を舞い落ちていくのをぼくははっきり見た。そられと一緒にぼくもまっすぐ落ちていた。落ちながらその暗闇に見覚えがあることを思い出した。それはぼくの孤独が一番深刻な時、部屋の隅やベッドの下でみた暗闇だった。まるで息をしているかのごとく、存在感を持つ暗闇だった。ぼくは目をぐっと綴じた。そしてまんぷくアリのことを思い出した。「キップル!キップル!」頭の中でまんぷくアリが神経質な金切り声をあげていた。「危険ですキップルが押し寄せています、とても危険です!あぶない、あぶない、あぶない!」それから彼女のことを考えた。彼女は最初の時のようにぼくにお別れを言っていた。それから雑多なイメージが次々と湧いてきた。ぼくはイメージの中をもがきながら、暗闇の中で手を伸ばした。伸ばした指先に暗闇が絡みつき自身の体内へ飲みこもうとした。闇が触手を伸ばして口や鼻や耳、身体のあらゆる穴から侵入しはじめた。

「これは現実じゃない!!」

ぼくは口いっぱいに闇がもぐり込んでくるのを構わず叫んだ。

「現実でこんなことがおきるはずがないんだ!これはゆめみたいなものなんだ!帰せ!ここからぼくを帰せ!ぼくは現実の側にとどまるんだ!」

 闇がとまどうように揺らいだ。次の瞬間、ぼくはゼリー状の質感の何かに突っ込み、そしてまたどこかへ抜けだした。目をあけると、そこはもとの廊下だった。ぼくは廊下の壁にもたれて足を投げ出してすわっていた。

「きみは運がいい。」季節の声。

振り向くと季節が壁にもたれかかって腕組みをして、こちらをじっと見降ろしていた。運がいいんだよ、そう彼は繰り返してから彼は軽く眼を閉じ、鼻から深く息を吸ってゆっくりと同じ場所から吐き出した。まるでとつぜん過去の記憶が押し寄せてきたみたいに。

「おれは季節として何百回も水先案内人を務めたが、目的地まで辿りつけるのはだいたい5分の2くらいだ。あとは途中で断念してしまう。あの廊下を抜けるには度量だけじゃない、運も必要だったんだよ。それを君は五体無事にクリアした。拳骨も頂戴しなかった。運がいいんだよ。」

いけるかい?と、聞かれ、もちろんと答えた。ぼくが立ち上がったのを見て、季節はまた歩き出した。ぼくは背中や脇や額に膨大な汗をかいていた。顔の上を流れる汗を払ってから季節を追いかける。

「さっきのはいったいなんだったんだろう」ぼくは彼に尋ねた

「なにか見たのかい?」

「季節を見失って床が崩れ落ちて暗闇に飲み込まれた」

「なんでも起こり得るんだよ、ここではね」

季節はそう言ってわけ知ったようになんどか頷いた。

 

 

「ここだよ」

季節が立ち止まった先は、廊下の付きあたりにある角部屋だった。ぼくはこの廊下に突き当たりがあるということに刺して驚かなかった。ここではなんでも起きうると覚悟をきめてしまっていた。ドアは深いオリーブグリーンをしていて、他のドアと同様に金縁のプレートもちゃんとついていた。しかしプレートには番号がふられてない。ただ無為な余白が存在するだけ。

 季節は道をあけ前へ出るように促した。ぼくはそれに従って前に出た。ドアの取っ手をとったとき、一瞬これは精巧に作られた偽物なんだと思った。だがそれは確かに現実としての取っ手だった。絵なんかじゃない。

 季節に、ここまで案内してくれた礼を言わなくちゃならないことをふと思い出した。それで振り返ったのだけど、そこにはすでに季節はいなかった。代わりに、遠くから、ひとつのドアが閉まる音がした。彼はまた別の場所に行ってしまったのだ。まるでひとときも一か所にとどまることを恐れているかのように。

 ぼくはそのまま、内開きのドアを押して中に入った。

 

 室内は照明が落とされていた。ちょうど歩くのに恐怖を覚えない程度の光度は保たれていた。左手の壁にはバーがあり、中には水族館の魚の標本のようにウィスキーだとかブランデーだとかの酒びんがずらりと並んでいた。天井からは古びたシャンデリアが垂れ下がっていた。それはぼくでも分かるくらい――なんというか、上等で趣味のよい部類に属する部屋だった。でもそれらは――趣味の良い装飾や調度品たちは――ただなんとなくそこに配置されているだけのように思えた。この部屋に訪れる人は誰もアルコールなんて欲してないし明かりだって必要だと考えていない。それは彼らにうっすらと積もった埃を見ればわかる。キップル。まんぷくアリが言うように、不要な物たち。

 

額縁の中ではまるで凍ってしまったような川の上に青白い満月が昇っていた。川の流れも月の運行も、すべてが強固に固定されてしまったように見えた。それからは100年分くらいの諦観が漂っていた。この絵を描いた画家は、なにかしら深く行き詰っていたのかもしれない。そしてそれは最終段階に及びつつあるような気がする。それはそういう深刻さを表したのかもしれない。でも、当然だけど、画家がその後どうなったかは、ぼくには知りようがないし、知ったところでどうすることもできない。そういう事実があったたということだけだ。

  不要な物たちの上を、一筋の光線が照らした。

 光のもとを見ると、奥の的遮られた戸がわずかに開いて、隙間から黄色い光が投げかけられていた。ぼくはそこに近づき、戸を少しだけ開いた。何も見えない。が、人の気配がする。もう少しだけ開いて、身体を中に滑り込ませた。そこは別室になった寝室だった。シングルのベッドと、柔らかそうな羽毛布団が目に入った。ベッドサイドテーブルの上で傘つきのスタンドが明かりをともしていた。明かりはそれだけだった。同じテーブルの上には数冊の本が平積みされてあった。いずれも分厚く、専門的で、目が痛くなるような文章を載せているタイプの本だ。それらはいかにも読まれることを忘れ去られたというように平積みされてあった。

 彼女はベッドの端に腰かけスタンドの光で本を読んでいた。膝の上に開いた本もまた専門的で退屈そうな内容のものだった。彼女は知識を蓄えているというよりはそこに書かれている語彙を追いかけているといるだけに見えた。きっとあまり面白くはないのだろう。そんなことはぼくにだって分かる。

「無限後退っていうんですって。……あなた、どういうことかわかる?」

 本から目を離さず彼女は言った。でも彼女の忍耐もそこまでのようだった。もうたくさんというようにパタンとページを閉じ、忘れ去られていくだけの本たちの上にそれを重ねた。彼女はしおりさえ綴じなかった。

 わからない、とぼくは答えた。

「事象が次の事象を呼ぶこと。」彼女は専門書を読みあげるような口調で言った。

1の次に2が現れて、その2がまた別の3を呼ぶの。それが永遠につづく。終りがないのね。どこにも救いがないことよ」

 救いがない。たしかに。すごく納得できる。行き着くところのない状況というのはほんとうに辛いことなのだ。

「行き着くところがないというのは地獄だね」

 と僕は言った。口にだすと、それは心象独白よりいくぶん深刻な表現になった。でもそれはどうしようもないのだ。彼女はちゃんと分かっているというように一度だけ深くゆっくりと頷いた。

「季節は、どうだった?」と彼女はたずねた。

「悪いやつじゃなかったよ。」とぼくは答える。すくなくともいきなり殴られたり脛を蹴り飛ばされたりはしていない。

「運がよかったのね」彼女は季節と同じ事を言った。

「でも用がすんだらさっさと行ってしまったからお礼も言えてないや」

「悪く思わないでね」彼女はおかしそうに頬を緩める。「彼らはちょっとせわしいのよ。それに、彼らもまた行き着くところないヒトたちだから」

「知りあいなの?」

 彼女は首を横に振って否定する。「ときどき向こうからやってくるだけよ。とてもドライなものよ。やってきて、一言二言おせっかいを焼いて(彼らに云わせれば通告らしいけど)、そしてまた行ってしまう。こちらの都合や意向はぜんぜん反映されない」

「君は季節が来たからこなくなったの?」

 そうよ、と彼女が肯定してくれるのをぼくは信じていた。でも彼女は静かに首を横に振った。

「ねえ、いつまでもそんなところ立ってないで、こっちに来たら?顔色があんまり良くないし、少し疲れているみたい。ほら、座るスペースならいっぱいあるわ。このベッド、輸入モノで、なかなか座り心地がいいのよ」

ぼくは促されるまま彼女の隣に座った。彼女はぼくの膝の上に手を置いた。その手は小さく細く、夕闇に紛れて消えていく影みたいにどこか物悲しかった。空いている方の手が、ぼくの腕をとった。ぼくはその存在の小ささにひどく驚いた。彼女の手はこんなにもちいさかったなんて。力もずいぶん衰えたように思う。なにかがあった。彼女の身に。脳のいちばん浅はかな部分はそう結論づけた。でもほんとうの、理性となる芯のほうからは、まったく違った真実が叫ばれていた。変わったのは彼女じゃない。ぼくだ。

「いったい――」

「だまって」

 そう彼女は遮った。口の端まで出かかった未解決の疑問は空中で成仏できない幽霊みたいに漂った。

「ねえ、おねがい。いまこの瞬間だけわたしの好きにさせて。わたしがあなたを愛した時間を取り戻させて。もしかしたらこれが最後かもしれないから」

「最後って――」

「しずかに。」

 彼女は言った。まるでこの場のことばが不適切であるみたいに。もっと適した方法が残されているというかのように。

 彼女の顔が迫ってお互いの唇が重さなった。どちらともなく体勢が崩れて、両方が引き摺られるようにベッドの真っ白なシーツの上に着地した。

そっから先、それがどういうことなのか、ぼくにはうまく説明できない。感想とするならばいままでの蜜月がぜんぶ紛いものに思えてしまうくらい素敵なことだったように思う。だけれども、ぼくの認識はあまりに惰弱過ぎて、それがどのように素敵だったのかよくわかってない。そしてそれがぼくという一人の人間にとってほんとうに必要なものなのかどうかも。

 

キップル。必要と、不要を分け隔てる彼らのことば。

ぼくに必要なのは、そういったソリッドな認識なのかもしれない。夢に取り込まれないような。ぼくという狭い足場を確保しておけるような。自分がなにを求めているのかくらい知っておけるような――

 

 

 

 

 乱れた衣服を整え直した彼女はとてもスマートだった。彼女のワンピースが足元からするするとよじ登っていくのを見るのは純粋に楽しかった。両手でたわわな髪の毛をざっくりと掴み取りしごく様に振り上げる様を見るのは古きよき芸術作品を目の当たりにしているみたいだった。つまるところ、それらは実に完璧に様になっていた。ぼくという不完全な存在が場違いに思えてしまうくらいに。

「ねえ、わたしね、たびたび思うことがあるの。」

「なにを?」

「貴方とずっと一緒にいられればいいのにって」

「そうすればいいさ」

 ぼくがそう言うと彼女は悲しげな笑顔を浮かべ、首を横に振った。

「残念だけど、わたしたちが離れ離れになることは決まっていることなの。私たちの意志とは関係なく。」

「でもこの部屋を出て行くのは僕らの脚だ。」

 彼女はクスリと笑った。まるでそこにある塵をふっと吹き飛ばすみたいに。

「あなたならではの発言ね。あなたはあの個室と廊下以外、どこにも属していないから。」

 それは間違いだ、とぼくは心のなかで言った。ぼくはあんな個室や廊下にとどまっていたくない。いい加減嫌気がさしたんだ。そこから脱出する手段を探し始めている。だからこんなところまで来たんだ。気の滅入るような廊下を、気の滅入るような孤独を、ずっとここまで耐えぬいてやってきたんだ。いいかい?それが肝心なんだよ。

「ぼくは君と雪解けを迎えるためにやってきたんだよ」

「残念だけど…」

 彼女は言葉を濁した。眼はシーツのうえの僕らの手によっていましがたつくられたばかりの皺のうえに落とされていた。それでぼくはすべてを承諾した。承諾せざるをえなかった。ぼくは彼女と別れる運命だったんだ。そしてその彼女はぼくが自分が変わったということを悟らせるために長い時間をおき、そして改めてお別れをいうためにぼくの前に現れたんだ。それが「季節」のもうひとつの意味。多くの意味を内包できる比喩としての季節。

「さあ、お別れね。」

 彼女は髪をさっと振り払ってまっすぐぼくを見た。ぼくはしばらく何かしらの妥協点が見つからないか彼女の視線を覗いていたが、希望の沸くものはなにもなかった。なにもない。それが本質なのだというように。

「なにか、欲しいものある?」彼女はベッドの上に腰かけ、室内の雑多な品物達を指差して言った。「この部屋でなにか欲しいものがあれば持っていっていいのよ。見ての通り、ひどいくらい散らかってるし、誰も必要としないの。おまけにどれも時代おくれの流行ばかり。それでもひとつくらいは有益なものがあるかもしれない。」

 ぼくはベッドサイドのスタンドを指差した。

「スタンド?」

 彼女はちょっと不思議そうな顔をして「スタンド?」と聞き返した。でも彼女はすぐに納得して、「ちょっと待ってて。スタンドのコードを抜くから」と、身体をテーブルの後ろに屈めた。

 ぶちんっ、と炸裂音とともに明かりが消えてあたりで何も見えなくなる。電源が断ち切られたのだ。暗闇が目の前に立ちふさがりなにもかもを見えなくした。それは今までになく濃い闇だった。ぼくは急に怖くなった。もういい加減暗闇や孤独に慣れているはずなのに、それでも怖いのはある意味不思議なことだった。ぼくは他人の存在を期待してつい彼女に向かって呼びかけた。でも返事はない。暗闇を手探りで彼女のいたあたりをまさぐったが、なにもなかった。手が空中でなにかを探り当てたが、それは鳴りをひそめて闇に紛れていたスタンドの笠の部分だった。彼女はすでに消えていたのだ。

ぼくは記憶と壁を頼りに暗闇の部屋を抜け出て廊下にでた。出て来る時も、ちゃんとスタンドだけは持ってきてきていた。しかしそのスタンドはひどい重量がある。重いことが目的であるバーベルみたいな重さだ。ぼくはまるで十字架を背負ってゴルゴダの丘に向かうキリストみたいにその重量に耐えながらとぼとぼと歩かなければならなかった。

 ある時点で振り返ってみるとさっきの突き当たりはもう見えなくなっていた。それはすでに微小な消失点の中にまぎれてしまっていた。

 個室のドアの前に立った時、ふとこの部屋にコンセントがあったっけと考えた。ちょっと考えてみたが、そんなものない。このうすらバカめ。コンセントがなくて、どうやって明かりが灯るっていうんだ。これじゃただのガラクタ未満じゃないか。まんぷくアリならキップルというだろう。ぼくはこのやたら重いスタンドを持って帰ったってただの無駄骨だ。腕から肩まですっかりしびれているし、そのせいで頭まで痛くなり始めている。合理的にみればディスアドバンテージの塊だ。ぼくは瞬時にこいつを本物のガラクタにする14通りの方法を思い描いたが、けっきょくどれも実行しなかった。これはぼくと彼女を関連付ける最後の糸だったし、この重み自体、ぼく自身が選択した重みなのだ。捨てるわけにはいかない。

 

辿り着いた時、腕から肩がいまにも腐り落ちそうなくらいしびれきっていた。個室のドアを開け、廊下の照明を室内に取り込んだ。ベッドを黄色の光芒がさっと走り、その上のシーツやまくらを照らし出した。ぼくはそこにまんぷくアリの姿を求めたがどこにもみつからなかった。ためしに声をだして彼を呼んだが応えたのは重い静寂だけだった。まんぷくアリも去ってしまったのだ。彼女と同じように。

スタンドは床に安置し、自身の肉体はベッドに放り込んだ。それから少しの間、疲れをとるためだけの眠りをとった。目が覚めた時、肉体の疲れはすべて取れていたが何かが変わったという感じはなかった。身体から精神のギアすべてニュートラルにはっているような感じだった。ただ取り残されているというだけ。

 しばらくぼうとそこらを眺め、やがてスタンドのことを思い出すと、無性にそれをどうにかしなくちゃという気持ちになった。とにかく、彼にもなにかしらの役割を持たせてあげなくてはならない。どこにもつなげられず床の上で無気力に突っ立せておくわけにもいかない。

とりあえず、それをつなげるコンセントを探した。そしてふとコンセントなんて一度も見たことがないことを思い出した。やれやれ、ボケがひどくなっている。

ところが、ベッドの後ろを覗いた時、プラスチック的な光沢のなにかを見つけた。まさかと思ってベッドをどかしてみるとそれはまぎれもなくコンセントだった。こんなところにこんなものがあるなんてぜんぜん知らなかった。それを偶然みつけるなんて、やっぱりぼくは運がいいのかもしれない。……いや、違う。それはぼくが必要だから現れたのだ。

スタンドのコードの先をそれに差し込み、スイッチを入れた。途端にやわらかなドーム状の光が室内を照らした。この部屋ではじめてうまれた光だった。その光は部屋のなかの暗黒を一気に追い払った。白日にさらされた部屋を見るとそれはまるで別の部屋に見えた。みっともなく、陰惨で、どことなく煤けている。とても生まれた時から過ごしてきた部屋だとは思えない。だけど――

ぼくはベッドのうえで仰向けになり照らし出された部屋の天井を眺め、そして記憶を仕舞い込むように瞼を閉じた。真っ暗な瞼の裏で小さな個室が圧縮され小さくなってパラパラと崩れ落ちた。崩れ落ちたのはまぎれもなくぼくの部屋だった。それは暗黒の中で崩壊し、暗黒のなかへと帰っていった。はがれおちた壁の向こうから、知らない世界が現れた。いまや世界は二分されているのだ。それをぼくは暴力的と言っていいくらいはっきりと認識した。

ぼくはその割れ目から現れた世界と、いまや「キップル」になり果てようとしている自分の部屋を見比べた。ぼくは死に絶えようとする部屋を「孤独」と名づけ、割れ目から覗く世界を「悲しい」と名づけた。

どちらに属するかは、これから決めるところだ。





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