グローバル時代の国際協力の新展開を求めて

 

―脱近代世界の到来―

 

水銀党本部 代表

冬月真弘

 

 

 

 

 

 

目次

 

はじめに 脱近代とは・・・世界を相互依存のネットワークで覆え

 

第一章 脱近代世界の到来・・・相互依存深まる国際社会

 

第二章 脱近代世界の拡大・・・世界規模での共存共栄の展望

 

おわりに 脱近代と近代の狭間で・・・日本は中国とどう向き合うか

 

 

 

 

 

 

 

 



はじめに 脱近代とは・・・世界を相互依存のネットワークで覆え

 

グローバリゼーションは、リアリスト的な国際政治学ではパクス・アメリカーナとして理解される事が多い。
確かに冷戦後、リアリズムで説明される世界はアメリカの単独覇権でしかない。
アメリカは、世界の軍事総支出の38%を占めており、いかなる国もアメリカとの総力戦に勝てはしない。実際、非現実的な言葉で言い換えれば、アメリカ以外の戦力をすべて統合しても、アメリカに勝てはしないのである。
従って今後の世界がどのように組織されるのかという質問は、アメリカの政策についての部分的な質問と同義だ。アメリカは、世界戦略の唯一のパワーであり、独立戦略の唯一のパワーなのである。アメリカを除いた残りの世界は、アメリカを反映し、畏怖し、アメリカの保護の下に生き、羨み、憤り、反抗して企み、依存している。どんな地域であれどんな国であれ、アメリカとの関係なしに自国の戦略を定義することは出来ない。
だがそれは同時に、国際秩序の安定がアメリカの国益に直結するようになった事を意味する。冷戦期、世界の秩序はアメリカとソ連という二極構造で分掌されていた。見方を変えれば、アメリカは世界の半分だけに責任を負っていればよく、残りの半分の世界の安定はソ連というカウンターパートに任せていればよかった。それでもコミットメントに限界が生じたのがヴェトナム戦争である。にも関わらず冷戦後、アメリカは世界のどんな地域にも、オフショアバランサーとして、時には直接的な介入者として一定の責任を負わなければならなくなった。


今後アメリカが世界唯一の超大国として、国際社会において果たすべき役割は多い。
今現在、北朝鮮の核保有宣言やイランのウラン濃縮などに代表されるように、核兵器及び関連する技術が様々な国に拡散しつつある。また、2001年の9・11事件で非国家主体であるテロリストの脅威が顕在化し、こうした守るべき国家や国民を持たず、従来の抑止が有効に機能しにくい国際テロ組織などによる大量破壊兵器などの取得、使用に対する懸念も高まっている。
テロリストは通常の軍隊とは異なる、多様な国籍の構成員を含む分散されたネットワーク型の組織を持つことが多く、対処は非常に難しい。同時に従来の主権国家間の関係も、依然として見過ごすことのできない要素であり、核保有国である中国・インドの台頭やロシアの復調などの動きは安全保障環境に大きな影響を及ぼし得る。
現在のアメリカは、伝統的な国家間の関係からテロリストのような新たな脅威の出現まで様々な課題に直面しており、これらの複雑な課題に対しては、超大国アメリカであろうとも単独で対応する事は困難であり、同盟国や友好国と協力が必要となっており、また、脅威の顕在化の未然の防止といった積極的な対応や、軍事力のみならず外交、経済などの手段を含めた総合的な対応が必要となっている。


このようにアメリカでさえ独力では世界全体を充分に強制力で統治することは不可能であり、安定した秩序を構築するためには十分なシステムが必要となる。そこで私が提言するのは、現在一部の先進国のみが属している「脱近代圏」を全世界に拡げ、脱近代世界のネットワークを構築することである。脱近代世界については、Robert Cooperが「the Post Modern World」、田中明彦が「新しい中世」と名を付けているが、私のレポートではこれらの概念をまとめて、現在において脱近代化が実現している圏域を脱近代圏、これが将来全世界に拡がった状態を脱近代世界と呼称する。

脱近代圏では、国家間が経済的な相互依存で複雑に絡み合い、情報を共有し、また多国籍企業やNGOのような非国家主体が台頭して、伝統的な国家の役割が軽減し、在来型の国家間戦争の脅威が軽減する。戦争の脅威が遠のけば途上国は軍事費に割いている莫大な予算で経済を活性化させ、世界は安定へと向かう。

当然、共通のルール作りの中では、近代的な権威主義国家の抵抗も発生する。

先日、外務省主催の円借款の講演会を拝聴したところ、偶然京都議定書に関して専門家の方のお話を聞く事ができた。CO2削減に関して世界共通のルールを整備しようという認識の共有が、発展途上国では進んでいないのが遺憾ながら現状だと私も思う。現在経済成長している発展途上国にとって、過去に蓄えた富で今の地位にある先進国の助言が欺瞞に感じられるのは無理もない。同じことは、核拡散の問題にもあてはまる。

こうした争点は、世界が未だ利害の不一致から安全保障上の問題に後退する危険性を示唆している。誰かが武力を行使することを決定したら、システムはジャングルの法に戻ってしまう。しかしながら、それでも多くの貿易協定は存在しているだろう。これは第一次世界大戦の始まりに当時のヨーロッパ国家間で開かれた市場や高次の経済的独立に関わらず、ヨーロッパで起こったことであり、共通の利益のために、我々は脱近代のシステムを拡大させていくべきである。

 

第一章 脱近代世界の到来・・・相互依存深まる国際社会

 

今日、例えば欧州連合(EU: the European Union)は最も成功した脱近代圏である。
EUは、軍事の透明性と経済の相互依存を通して平和と繁栄を確立した。EUは超国家的というより、多国籍の協調システムである。EUの将来像を統一された国家「一つのヨーロッパ」であるかのような幻想を抱いて語る人々は未だに少なくないが、現実のEUの将来像は、これとは似て非なるものである。
同様に、脱近代世界の将来像が「世界連邦」「世界国家」であるという考え方も、現在では少数派になった。世界連邦主義は古代よりコスモポリタニズムの一体系として受け継がれてきたが、それは、国家は基本的に危険であるという前提、国家の野蛮による無秩序を抑える唯一の方法は覇権を押し付ける、つまり単一の国家の下に各国の主権を制限しなければ恒久平和は実現できないという前提に依るものである。国民国家をより文明的な、より昨今の世界に適応したものにしてきた組織をつくってきて、いまだにそれをより古いものと取り替えようとする熱狂者がいることは興味深い。国民国家が問題であるならば、より巨大な強制力である超国家は間違いなく解決にはならない。


確かにヨーロッパでは欧州通常戦力条約(CFE: the treaty on Conventional Forces in Europe)による軍備の透明化によって国家間戦争につながる脅威が軽減していった事や、欧州安全保障協力機構(OSCE: the Organization for Security and Co-operation in Europe)及びその他の機関・条約等で外交や安全保障に限らず経済・内政・人権といった従来は主権国家の内政問題である分野でも規則が共有されるようになり、その結果国家間の境界線が持つ意味が失われつつある。
だがそれは直ちにその圏内の国家・領域が不要である事を意味しない。田中明彦の『新しい中世』を参考にすれば、未だ地球上に近代的な権威主義国家が残存している以上、対近代圏防衛のための国家は依然として必要である。
さらに、国際機関・条約は絶対ではない。現に2007年12月12日、ロシアはポーランド・チェコへのアメリカ主導のミサイル防衛基地設置に反発し、CFE条約の履行停止を宣言している。また、単一世界国家では少数意見が反映されない危険があり、各国独立による多様性の確保も必要だし、複数国家の競争による効率化も有効だ。ただし、近代国家の役割はもはやそこでは完全に変質している。


近代ヨーロッパはウェストファリア体制の平和と共に産声を上げた。対して脱近代のヨーロッパは、二つの条約から始まっている。そのうち一つ目、1957年のローマ条約は近代の秩序の失敗による教訓から生まれている。すなわち、バランス・オブ・パワーによるバランスの破壊と、ナショナリズムによる危険な過激性をもたらした国民国家の問題を教訓にしている。ローマ条約は国民国家を越えるための意思であり、成功しつつある試みである。

脱近代時代の二つ目の基盤は欧州通常戦力条約(CFE: the treaty on Conventional Forces in Europe)であり、これは冷戦期の浪費と不条理の反省から生まれている。欧州安全保障協力機構(OSCE: the Organization for Security and Co-operation in Europe)もまたこの脱近代に属する。また、違う分野では、化学兵器禁止条約(CWC: Chemical Weapons Convention)やオタワ条約は対人使用を禁止し国際刑事裁判所(ICC: the International Criminal Court)を創立させている。

脱近代の秩序はバランス・オブ・パワーには依存しない。各国の主権の強調でも無ければ内政と外交の分離によるものでもない。
欧州連合は加盟各国が内政問題に相互に関与できる高度に発達したシステムである。CFE条約もまた従来は国家の主権の範囲内であった領域に踏み込んだ。諸同盟、すなわちNATOやワルシャワ条約機構などは、彼等が保有する重火器の位置を通知しなければならず、査察が許されている。条約の下、5万以上の軍の重火器装備、すなわち戦車、大砲、ヘリコプターなどが相互の合意に基づいて破棄されてきたが、これらは空前の出来事であった。国家の要素である正統な軍事力の保有はこのような国際的な、しかし自ら課した規制の対象である。


軍の通常の論理的な立場とは、その戦力の規模と装備を潜在仮想敵に対して秘匿する事にある。こうした対象を規制する条約は、戦略の論理からすれば不条理である。第一に、普通自らの敵と合意する事などしようとしないし、それにもし相手が敵だとするなら、敵との約束など信用できない。第二に、普通は敵が自分の基地に装備の査察のためにやって来るのを許しはしない。
CFE条約は正にこれを実現させたのである。その理由は、CFE条約の背景となった核の時代の矛盾、すなわち自分を守るために自分の身を滅ぼす準備をしなければならない事にある。核のカタストロフィを避けたいという全ヨーロッパの国々の共通の想いが不信と秘匿から成る通常の戦略の論理を乗り越える事を可能にしたのである。核の時代に安全を提供した相互の脆弱性は、現在は従来のスペクトルの終わりによって相互の透明性を確保できるところまで発展している。冷戦期の核の手詰まりは、相互の透明性にある程度依存するようになった段階で既に脱近代のいくつかの要素を含んでいた。抑止を機能させるために、相互の核戦力の透明性は欠かせなかった。

CFE条約への道程は外交上のわずかな革新の一つ、信頼のための手段の確立によって実現した。誤算による戦争を防ぐ手段、例えば、相手の動きの観測の発達である。「囚人のジレンマ」の結果、相互の秘密主義の終焉がもたらされたのである。

やがてCFE条約は早い段階で内包する矛盾によって崩壊する事になる。独創的な構想によって、条約は二つの対立する陣営のバランスを具体化した。基礎となる仮定は敵意の一つであり、バランスはどちらかの陣営がもう一方を攻撃するリスクを冒す可能性を減少させるために必要とされていた。
軍備の透明性は、バランスが実際に働いている事を証明するために必要だった。しかしバランスと透明性が達成されるまでに、敵意を持つ事が難しくなっていった。その結果として透明性は残ったが、敵意と均衡(陣営のうちの一方も)は事実上消滅した。勿論これは、CFE条約だけの効果によるものではないが、この条約を可能にした政治的変化によるものである。しかしこの結果は、二つの体制、すなわち近代的な勢力均衡と脱近代の情報公開との間に、基本的な不一致があり、両立できない事を示唆している。

CFE体制の核である相互の軍備の徹底した検証は、脱近代秩序の鍵となる要素であるが、脱近代秩序へ向けた課題は多く目的地は遠く、CFE条約やCWCのような軍備管理条約はあくまで部分的なアプローチである。

CFE条約による軍備の相互検証で伝統的な国家主権の壁が破られたが、国家主権が犠牲になる領域は外交と安全保障とに制限されてきた。このように、認められている領域は外交問題の内政的側面による干渉を受けているのである。

OSCEの理想はさらに遠大である。OSCEの原則は、民主主義的な手続き、マイノリティへの待遇、報道の自由など、内政の基本的な問題にまで言及しており、外交や安全保障に対する伝統的な関心だけには留まらない。OSCEの国家の内政問題に対する国際的な監視システムとしての機能が今後発展していくかどうかは依然未知数である。もし発展するならば、OSCEはヨーロッパの国家のシステムにおいて主権の壁を越える事になり、OSCEに加盟する(あるいはOSCEの規約を遵守する)全ての国が脱近代圏に入る事になるだろう。

この圏域における特性は、国内問題と国外問題との区別が次第に薄れていく事にあるといえる。いくつかの地域での内政の相互の関与や相互の監督(食品の安全、補助金、財政健全化など)は、脱近代の国々にとっては普通である。EU域内では企業合併や政府の補助金などは共有の規則で扱う問題である。ほとんどのヨーロッパの国では、欧州人権裁判所の判決が、全ての各国国内の問題(例えば児童の体罰の是非など)について最高裁のそれとして認められている。論争を解決する手段として強制力は認められていない。少数意見は共有の規則や法廷によって解決されるだろうし、例えばイギリスとスペインのジブラルタルの帰属を巡る論争のようなより基礎的な問題は時間と交渉に委ねられる。ほとんどの分野で、規則は各国が任意で自らに課すものとなる。誰もCFE条約の規則やヨーロッパ法廷に従うよう、各国を強制したりしない。EUでは各国とも自国の利益のために共通のシステムを機能させる中で規則に加わる。何故なら全ての加盟国が、EUの法規則を維持する事によって利益を有するからである。

また国境線は、脱近代の国々の中ではますます時代遅れなものになっていく。EUのほとんどの地域で国境線の表示は取り除かれ、旅行者は道路標識の色の違いでしか、今自分が別の国に来たのかどうかがわからなくなるだろう。裁判所の判決は今日国境を超えて効力を有する。安全保障の環境はかつて国境の壁を基礎としていたが、今は情報公開と透明性と相互脆弱性を基礎としている。いくつかの脱近代の関係、例えばロシアとの関係は、透明性が制限されており、CFE条約のような条約によって慎重に定義されている。これは戦略的な変革である。他国に囲まれて脱近代の原則のより広範囲の適用を受ける事は、国家の運命に変革をもたらすだろう。

最も重要な脱近代の諸制度は既に言及しているが、ストラスブールの人権裁判所はこのカテゴリーに属し、内政の管轄に直接関与する。刑務所内の拷問などが行われていないか、どこにでも抜き打ちで査察が可能だ。
経済の分野では、国際通貨基金(IMF: the International Monetary Fund)や経済協力開発機構(OECD: the Organization for Economic Co-operation and Development)が経済の監視体制を指揮している。核不拡散条約(NPT: the Non-Proliferation Treaty)は、国際原子力機関(IAEA: the International Atomic Energy Agency)と共にセーフガードと特別な監視体制をつくっている。これらの機関や条約も脱近代の安全保障の一部である。イスラエルやインド、パキスタンのような未加盟国や、加盟する核保有国の情報公開の不足から監視は現在まだ不完全だが、IAEAは加盟国にいつ何処にでも査察を行う事が許されている。


ICCは国内と国外の区別が取り払われた脱近代の進歩的な一例である。もし世界が力よりもむしろ法規範によって支配されるようになるなら、その法を犯す者は犯罪者として扱われる事になる。
このように脱近代の世界における国際関係は、かつての不道徳なマキアヴェリズムから道徳意識にとって代わり、従って戦争は正義か否かという問題への関心も新たになる。これらの制度は各国政府、及び各国議会が批准した複合的な条約等によって創設されてきた。しかし、結果はこれらの制度の網の目が伝統的な国際外交の範疇を超えて拡がる事になった。


脱近代世界の新しい安全保障体制によって、バランス・オブ・パワーはもはや機能しなくなるだろう。技術の発展による戦争の恐怖が戦争を回避させるし、今日の民主主義社会は互換性があり、より国際秩序に対して開かれている。何より安全保障はもはやバランスに依存してはいない。潜在的な大国も取り込む事が可能だ。ドイツの平和的な再統一はその証明である。

脱近代の国にとって困難なのは、民主主義と民主主義的諸制度は国家の領域と不可分な点である。
国家のアイデンティティー、国家の領土、国家の軍隊、国家の経済、そして国家の民主主義などの組み合わせは非常に成功してきた。経済や立法、安全保障といった分野では国際的な枠組みへの結合が進んでいて国家の境界線があまり重要ではなくなってきているが、アイデンティティーと民主主義の制度は依然国家のものである。これが、伝統的な国家が予測される未来の基本的な国際関係の結びつきにおいても残存しているであろう理由である。


何がこの転換点となるだろうか。重要なポイントは、「世界がより誠実になっている」事である。ほとんどの大国がもはや戦争や侵略を望んでいない。これによって近代は終わり、脱近代の時代が幕を開ける。フランスは核兵器を持って論理的には優位な立場にいるが、もはやそれでドイツやイタリアを侵略したいとは思わないし、アルジェリアを取り戻そうとも思わない。少なくとも西側の大国では、帝国主義の本能は死んでいる。領土を獲得する事はもう利益にならない。そんな事をして養う人口が増える事はほとんどの国にとって悪夢だ。

これらの変化は全てが最近の事ではなく、帝国主義は長い時間をかけて少しずつ衰えていった。イギリスは19世紀には支配していたアイルランドを、激しい独立運動に負けて20世紀初期には独立させた。スウェーデンは1905年にノルウェーを独立させた。しかし、何よりも画期的なのは、今日のヨーロッパの構成国が、国ごとにばらばらに統治されているのではない事だろう。

もしこの見方が正しいのなら、我々はEUや、NATOでさえも、西ヨーロッパのこの半世紀の平和の理由としてのみ考えるべきではないだろう。鉄鋼や石炭の産業は、これらの資源が共有された事でもはや争いの理由ではなくなった。また各国軍の軍事計画や指揮系統はNATOに結合されている。
これらの枠組みによってヨーロッパの国同士が戦うのは不可能だし無意味になっている。ヨーロッパ自由貿易協定(EFTA: European Free Trade Association)加盟国は長らくNATOもしくはEUに加盟しなかったが、相互に戦う意味が失われた。

NATOとEUは、ヨーロッパの国々がもはや互いに戦う事は望まないという基本的な事実を強化し維持するための重要な役割を担っている。NATOは以前よりもはるかに軍事を開かれたものにしていっている。各国の軍事計画もCFE条約から情報公開されており、各国は自国の隣国の軍備を正確に知る事ができる。
EUによって統合されたヨーロッパはNATOとはまた異なる。EUの安全保障政策はNATOに近いが、ドイツとフランスの石炭・鉄鋼の共有に代表される資源の共有、そして市場の共有、さらには外交政策や農業政策の共有は、機能の統合をより強化し、このように脱近代圏は相互依存によって成熟した不可分の圏域に変容しているのである。

 

第二章 脱近代世界の拡大・・・世界規模での共存共栄の展望

 

では脱近代圏は、先進国を超えて全世界の国々に拡大し、利益をもたらせるのか。ロシアがその分水嶺といえる。
ロシアは、前近代、近代、脱近代の三つの可能性を体現している稀有な国家だ。CFE条約や第一次チェチェン戦争の間のチェチェンでのOSCEオブザーバーのロシアの承認は、公開ドクトリンの全面的喪失を示しているわけではない。ロシアが脱近代的な条約の参加という点でどのようにふるまうか(CFE条約において著しい、しかしヨーロッパ評議会の会員を通してそういったものは獲得されている)は、未来への鍵であろう。だから、ロシアとの安全保障関係をどのように構築するかを決定するように、残りのヨーロッパのふるまいも決定される。

近代圏とされるアジアにおいて、脱近代国家日本が存在する。
日本は、防衛に使用と能力の点で制限を自らに課している。日本はもはや、領域を獲得することや武力を行使することに興味がない。もしもアジアにある国でなかったら、OSCEあるいはEUといったような組織の原メンバーであっただろう。
日本にとって不幸なことに、日本は、古い時代のままの国に囲まれた脱近代国家である。一国内での脱近代化は、アメリカとの安全保障条約が隣国がほとんど脅威でないように生活することを可能とするゆえにのみ、可能である。
中国が将来性のないやり方を維持して発展するならば、日本は防御的モダニズムに戻ることを強いられうる。


そして、その他の地域はどうか。ヨーロッパで現実になったことは、多くの地域で熱望の対象である。ASEAN、NAFTA、MERCOSURやAUでさえ、少なくとも脱近代的環境への熱望の対象を示唆する。これらの組織の多くは、EUで発展したパターンにしたがったプログラムがある。あまり統治されていない地域へのポストモダンへの熱望は、すぐには現実化しそうにない。多くの発展途上国は苦労して得た独立を惜しみ、そして、国内関心事での多くの妨害を許す自らのアイデンティティーに確信がない。だが、模倣は新しい発明より易しく、急速な脱近代化は、すでに世界の多くのところで進行中の急速な工業化の後にやってきうるだろう。

 

終わりに 脱近代と近代の狭間で・・・日本は中国とどう向き合うか

 

前の章では日本を脱近代国家として紹介したが、不幸にも日本は周囲を近代圏の国々に囲まれており、アメリカによって安全が保障されていない限り単独でのポストモダニズムは難しく、中国の台頭次第では日本が防御的モダニズムへの回帰を強いられるだろうと述べた。
脱近代世界での国際関係に依拠しつつ近代圏と対峙するための日本独自の政策とはどうあるべきか。
パラダイムの中のひとつ悲観的リアリズムで中国を捉えるならば、現在の中国の台頭は、そのまま覇権獲得のための勢力拡大、軍事的脅威を示唆している。
もしくは悲観的リベラリズムで捉えるならば、急速な経済発展の結果生じる未成熟で過渡期的な民主化は、安定した民主主義国家や安定した権威主義国家よりもはるかに国家を戦争に導きやすい。
これは戦前の日本、そしてユーゴスラヴィア崩壊後に生まれた国々が典型例である。 
こうした脅威に対して、日本は日米安全保障体制の有効性維持による一種の勢力均衡が必要になる。「近代的」な最悪の危険に対処するためには「近代的」な方策を取らざるを得ない。
具体的には、大陸国家に対する海洋国家の伝統的バックパッシングとして同じ大陸国家のインドに頼る事になるが、ドイツ・ロシアの間に戦車を走らせるのに最適な平原としてのポーランドしかないのと違い、インドと中国の間にはヒマラヤ山脈がそびえ、山岳部隊の小競り合いを超えた、大規模な陸軍同士の戦闘はほぼ期待できない。
また、日本が中国に対抗して中国を封じ込めるための第一列島線(日本の石油供給のシーレーンも重なる)の防衛にこだわるには大海軍の建設が必要になるが、日本独自の軍備拡張は中国の軍拡を助長し脅威を現実にする負のサイクルである。

従って中国を日本が軍事的に抑え込むのは難しく、むしろ経済発展、相互脆弱な経済相互依存、情報化の促進によって中国社会を取り込む事が望ましい。
また、ASEANやAPECのような多国間協議も利用されるべきだろう。
より長期的には、アジア太平洋全体が脱近代世界へ向かい近代的な安全保障政策が必要なくなる事が望ましいのである。



参考文献

田中明彦『新しい中世――相互依存深まる世界システム』(日本経済新聞社、2003年)

ROBERT COOPER, THE BREAKING OF NATIONS





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