ニクソン・キッシンジャー外交を実現させた背景を考察する

平成19年6月 冬月

 

ウッドロウ・ウィルソン以来理想主義に基づく外交を行ってきたアメリカが、ニクソンとキッシンジャーの下でリアルポリティークの実践を試みた事は極めて画期的な事であるが、これは二人の思想信条のみならず、キッシンジャーも指摘しているようにベトナム戦争の泥沼によって従来の理想主義的価値観そのものに対するアメリカ人の支持が分裂しアメリカが疲弊していた時代の要請という側面もあったと思う。 

それまでのアメリカは、歴代大統領の言葉を信ずるならば自国の国益というアメリカ以外の国であれば通常どこの国でも(口に出さないまでも)重視する要素を考慮せず、その理念のみで外交を展開してきたし、逆に言えばそうする事ができていた。
これはアメリカの圧倒的な国力に基盤を置き、何より第二次世界大戦でも朝鮮戦争でも、アメリカの理想主義が成功し通用した経験に支えられていた。こうした成功は、アメリカ人に二つの重大な誤解をさせる結果となった。

一つは、アメリカの掲げる道義的価値観や民主主義は世界中どんな政治的、社会的、あるいは歴史的背景を持つ地域であっても、そうした特質を無視して通用させる事ができるという誤解である。
ベトナムにおいてアメリカは、ホーチミンの民族主義的側面を理解する事ができなかった。
これはキューバのフィデル・カストロがソ連と結びつきキューバ危機という形でアメリカに大きな脅威となった苦い経験にも影響されてはいるが、アメリカはホーチミンを第一に共産主義者と見なし、第二にようやく民族主義者と考えた。
そして中国の出方を読み違い、中国と北ベトナムが共産主義によってこの地域の覇権を得ようとしているという危機感をもってベトナム戦争を戦った。
[1]北ベトナムや後の反戦論者達がこの戦争を『アメリカ帝国主義による侵略戦争』と見るのに対し、アメリカは『共産主義による侵略戦争』から南ベトナムの自由を守るために戦うという、不幸なすれ違いが発生した。
アメリカは中国と北ベトナムを考察する上で共産主義というイデオロギーに囚われず地域研究を重んじるべきだったが、ジョン・スチュアート・サービス、ジョン・カーター・ビンセント、ジョン・ペートン・デービスら国務省内で東アジア研究の専門家だった人材が軒並み
50年代のマッカーシーの赤狩りで追放されていた事は皮肉である。1948年、フランスのボラエール高等弁務官は「ベトミン政府の反フランス・ゲリラ闘争は、ベトナム、インドシナの問題をはるかに越えた東南アジアの赤化運動の一環を為すものである。現在のインドシナ闘争は民族独立のための戦いではなく、現地民衆のためではない他の主義のための道具になろうとしている」との声明を発表し、ベトミンの独立運動を共産主義運動と定義し、この誤解の最初のきっかけをつくった。[2]これは多分にアメリカの反植民地主義の牽制を狙ったフランスの戦術であったが、結果的にアメリカはこの声明を丸呑みにする形でベトナム戦争へと進んで行く。

そしてもう一つは、世界政策に臨むにあたって他の国が通常行うような自国の国力の計算をする必要を感じなかった事だ。
ベトナム戦争以前、アメリカでは世界のある問題にアメリカがその理念に照らして介入する価値があるか議論される事はあっても、それがアメリカの国益に結びつくか、あるいはそれがアメリカの国力で可能なのかといった議論は敬遠されていた。
国力を惜しむ発想はアメリカには無く、圧倒的な国力による恵まれた立場がこうした認識を可能にしていた。
事実、過去にアメリカがその理想のために行った戦争でアメリカが敗北した事は一度も無く、アメリカは行動するにあたって理念だけを考えていれば良かった。
そのため、アメリカは封じ込め戦略において世界中で無制限の介入を行う事になり、ベトナム戦争において自国の国力の限界を知る結果となった。
ウィルソン以来の理想主義が想定していなかったアメリカの力の限界という壁に直面する事によって、アメリカの国論は二分され、新しい世代によってアメリカのこうした伝統的な価値観が攻撃された。

ニクソンとキッシンジャーのリアルポリティークは、こうして疲弊したアメリカが国際的な指導力を維持するために有効だった。
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年のグアム・ドクトリンは、アメリカが力の限界に直面していたからこそ可能な宣言だった。
全世界への無制限の介入というどんな超大国でも不可能な力の浪費を止めるという現実的な目的があったとしても、従来のアメリカであればその『友人』を守る力を惜しむような宣言は到底考えられなかっただろう。
また『リンケージ』とは、ある分野の対立で相手方の譲歩を引き出すために、他の対立していない分野でも人為的に対立を発生させて包括的な圧力を加える手法だが、理念のみに基づいて行動するアメリカであれば、こうした手法はとれない。
そして、対ソ関係でアメリカが有利になるために中ソの対立を利用し、アメリカが中国に接近しつつソ連とも交渉を行う三角関係の中での『スウィング・ポジション』に立つ事でアメリカの安定した地位を確保しようとする戦略は、中国もソ連も区別無く共産主義を全面的に悪と捉えた前提で、妥協や交渉の余地を見出さない従来の柔軟性を欠いた共産圏への認識では不可能だ。

こうした国益を前面に出した柔軟な外交は、個人レベルの善悪の概念を国家間外交にまで反映させるアメリカ人の国民性とは当然合致していない。
ベトナム戦争により疲弊していたからこそ遂行可能だったのであって、アメリカ外交の伝統として定着しなかった事は致し方ないだろう。
だがニクソン・キッシンジャーのリアルポリティークを『汚い外交』だと非難する資格が、この当時の理想主義者にあるだろうか。
ベトナム戦争後期に起きた内戦まがいの反戦運動においてその先頭に立ち、ウィルソン以来のアメリカの理想主義を失墜させたのは皮肉な事に他ならぬ彼等自身であり、そしてニクソン・キッシンジャー外交はこの混迷の中にあってアメリカがソ連・中国に対して大国としての地位を保つ事に確かに成功したのである。



[1] ロバート・S・マクナマラ『マクナマラ回顧録』(共同通信社、1997年)56ペイジ。

[2] 小倉貞男『ベトナム戦争全史』(岩波書店、1992年)34ペイジ。

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