米ソの核外交―初期の核独占を外交に利用できなかったアメリカ―

平成19年7月 冬月

 

冷戦時代を振り返り、単純に核戦力の優劣で米ソを比較するなら、ソ連はアメリカよりはるかに出遅れ、核を保有した後もその運用能力の実態は冷戦期の全般を通じてアメリカよりはるかに脆弱だったことが今日明らかになっている。
1949
年にソ連が原爆実験に成功するまでの四年間、アメリカは世界で唯一の核保有国だったし、ソ連は原爆を完成させた後も、実戦で使用できるだけの能力を持っていなかった。朝鮮戦争でアメリカが原爆を使用できなかったのはソ連の原爆保有による抑止が働いたからだというのが今日の一般人の通念だし、戦争の当事国であった中国は実際にソ連の核の傘に期待していたが、実際には当時のソ連には原爆をアメリカまで運搬する能力が無く、中国が期待していたような拡大抑止を実際に機能させられたかは極めて疑問である。
アメリカが朝鮮戦争で原爆を使用しなかったのは、北朝鮮に原爆が効果を発揮できるような目標が無かった事と、後述するような民主主義国家としての原則からである。


水爆の開発にスプートニクショックとボマーギャップという心理的効果も加えてソ連が軍事的優位に立ったと見られた1960年代になっても、ソ連の劣位は変わらなかった。
フルシチョフ自身が認めているように、ソ連のミサイルは性能が不完全であり、アメリカにとって十分な脅威とならなかった。
ボマーギャップに関しても多分にソ連のはったりを真に受けたアメリカ側の過剰な反応だった。
1946年からソ連の戦略空軍の主力であったツポレフTu4は、第二次大戦中にソ連領内に不時着したアメリカのB29のデッドコピーだったし、54年春のメーデーに登場したミヤシシチョフM4『バイソン』はB52に匹敵する大型爆撃機でアメリカ側を動揺させ、いわゆるボマーギャップを引き起こしたが、実際にはエンジンの燃焼効率が悪く、弾頭4.5トン搭載で11200キロ、9トンだと4800キロの航続力しかなく、これではアラスカまで行くのがやっとでとてもアメリカ本土を爆撃する能力は無い。
ボマーギャップでむしろ深刻だったのは、アメリカ側に
B472042機、B52744機と戦略爆撃機を大量生産させてしまう口実を与えたことだ。アメリカの戦略爆撃能力に対する力の差は歴然となった[1]

このように、核戦力においてソ連にはるかに優越していたアメリカが、しかし核外交という政治的局面においてソ連に対して決定的優位に立てなかったのは何故なのかを考えたい。まず、アメリカは核保有を独占していた四年間を、必ずしも自国にとって最大限有利に活用する事をしなかった。
アメリカはこの時期外交の場において、核をちらつかせてソ連に圧力をかける事や、ソ連の核保有を予防する行動をとる事ができたが、民主主義国家としての制約がアメリカにそうした行動をとらせなかった。
核を持たないソ連に対して、それも先制攻撃で原爆を使用する事はアメリカの原則に反していた。
その結果、アメリカは核を独占している事を、平時に強制力を持つ効果的な手段として活用する事ができなかった。
実際に用いるとなると、ソ連に壊滅的な打撃を与えるには当時のアメリカの保有量が十分でないという問題もあった。
また、当初アメリカは戦後構想の一環として核兵器の国際管理を模索しており、核問題の冷戦構造への移行には出遅れる形となった。


アメリカの民主主義国家としての原則は朝鮮戦争への核使用を巡る論議にも影響している。
アメリカが核攻撃の可能性について中国側に明確に示唆したのは停戦後であり、しかもそれは停戦協定が破られた場合を想定していた。
朝鮮戦争の段階ではソ連は原爆を完成させてはいたが保有量と運搬能力でアメリカに対し圧倒的に劣勢であり、実質的なアメリカの核の独占は実のところ変化していなかったが、ここでもアメリカは協定が破られた場合の反撃手段として核攻撃を示唆しただけだった。
民主主義国家は自分からは戦争を始められず、攻撃は防衛のためでなければ行えず、あからさまな挑戦もないのに戦争を開始すると脅す事は容易ではなかったのである。


マンハッタン計画を推進したルーズベルトの死によって、政治的指導者の核に対する認識度が米ソで逆転するという皮肉な事態も、核外交でソ連に有利に働いた。
ソ連のスターリンは米英の原爆製造計画をスパイからの情報によって詳細に知っていたが、トルーマンはルーズベルトの死後大統領に就任して初めて原爆の存在を教えられた。トルーマンが核によって相手に恐怖心を与えるための方策を考えるはるかに前から、スターリンは自分自身が脅かされていると相手に悟られる事の危険について理解していた。その結果スターリンは、アメリカの核兵器を前にして、自国が弱い立場にあると見られるのを防ぐためにより非妥協的になり、あたかも核兵器が存在しないかのように振舞った。
またスパイからの詳細な情報によってアメリカの原爆の実際の数を的確に把握していたスターリンは、その数がまだソ連を攻撃するには不十分だと思われる時期にチェコのクーデタやベルリン封鎖、北朝鮮への韓国侵攻許可など大胆な行動をとる事ができた。
技術的な核兵器の開発ではアメリカがソ連に先行していたが、核の登場を前提とした外交戦略に関しては、ソ連がアメリカに先行していたのである。


60年代のフルシチョフ体制になっても、ソ連はこの路線を本質的には継承した。
フルシチョフの政策は、劣位であるが故に攻勢に出る事であった。
その小規模な核戦力を本気で使用すると威嚇する事で、はるかに大規模なアメリカの戦力に対抗するのが彼の戦略である。
実際にはアメリカの戦略爆撃能力に対して勝てない事をフルシチョフは認識しており、これは危険な綱渡りだった。
この戦略を続けるためには、
ソ連の核とミサイルの実態を西側に知られてはならず、ソ連が脅しではなく本気で核を使う覚悟があると西側に思わせていなければならない。だが一方でそのせいで東側の同盟国がソ連の実態を誤解して冒険することのないよう統制しなければならないという、非常に困難な命題であり、結局のところ両立できなかった。またこの戦略は、西側が対抗策を講じないという前提の上に成り立っていた。

だがソ連の、実態は劣位にある核戦力で西側に心理的な恐怖を与え続ける戦略は、結果的にはソ連の延命に大いに役立った。
スプートニクショックの幻影にごまかされてはいたが、
60年代のソ連は実のところ、軍事以外のほとんどの分野で西側世界に対して敗北しており、ジョージ・ケナンがもっと早く指摘していたように、「実際にはとうの昔に消滅しているのに、この世ではその光が最も明るく輝いている星々の一つ」であった。
そのような実態にも関わらず軍事の、それも核という狭い分野に競争の焦点が絞られる事は、総合的に劣位にあるソ連にとっては非常に有利だった。


このように、冷戦期の核競争はその実態の優劣と、政治の舞台でどちらがこの問題を自国に有利に活用しているかとでは全く正反対の様相を呈していたのである。



[1] 碇義明『爆撃機入門』(光人社、2000年)240ペイジから251ペイジ。


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