マスメディアの公共性を問う

〜公共の情報発信がもたらす言葉の暴力への、批判と反省〜
                                          
平成18年 冬月




朝日新聞『ネズミ踊り発言』

「新成人を中傷」と抗議文=浦安市長が朝日新聞社長に−千葉 
--- 時事通信社 - 1月13日13:27 

 『千葉県浦安市は13日、同市が9日に開いた東京ディズニーランド(TDL)での成人式について、朝日新聞がコラムで中傷したとして、市長と教育長名で謝罪などを求める抗議文を同社社長あてに郵送したと発表した。 

 朝日新聞の10日付夕刊1面のコラム「素粒子」は、同市の成人式について「浦安の新成人。遊園地のネズミ踊りに甘ったれた顔して喜んでるようじゃ、この先思いやられる」と書いている。』 





突然ですが、上の記事を見て頂きたい。
これは今年の1月に、成人の日に関連して発生した一つの問題に関する記事です。

今回は、マスメディアの公共性について論じたいと思います。
お茶の間のTVから朝一番に読む新聞、カーラジオに至るまで、我々の日常生活においてマスメディアは、その組織力ゆえに影響力において個人の発言を圧倒し、特に民主主義が発達した今日の世界(北朝鮮や中国など一部の地域を除く)においては、その情報を大衆に浸透させる影響力は、実質的に国家権力さえも超越すると言われています。
皆様は普段TV・新聞・ラジオなどを利用し、それらが一方的に提供する大量の情報を享受する中で、逆にそれらに対して問いかけたいと感じたことはあるでしょうか。
『現代社会において情報は氾濫しており、その取捨選択の自由とそれによって発生する義務は、個々人の自己責任である』・・・これは皆様もよく耳にするであろう自由主義のお題目ですが、しかし一方で情報の取捨選択の判断に必要な基準もまた情報であり、個々人が独自にその情報を収集する手段は乏しいという無視できない事実があり、それを完全に個々人の自己責任と言い切るのは、理想論に過ぎるでしょう。

何が正しく、何が間違っているか・・・我々の意思決定に強大な影響力を持つメディアには、その影響力に対する責任があると、私は考えます。
しかるに昨今の日本のメディアは残念ながら、その責任を果たしているとは言い難い現状にある、そう申し上げざるを得ない事例が、本当に多い。
『報道の自由』という自由主義の理想論に甘え、実際には視聴者に一定の思想を押し付けている結果になっている実態に気付きながら目を背け、情報操作と言われてもおかしくない時に偏った恣意的報道をよく目にします。
メディアには事実を報道する自由と共に、事実を編集、すなわち加工する自由があるということにお気付きでしょうか。
例えばやはり今年の一月に逮捕されたライブドアの堀江貴文氏について、マスコミが行なってきた報道は、適切といえるものだったでしょうか。
確かに堀江氏には批判されてしかるべき罪があるでしょう。
ただし、彼が逮捕されたのは、彼が違法な行為をした疑いがあるからであります。
しかるにマスコミは報道の中で違法行為の紹介の中に巧妙に合法な行為まで混ぜ、法律に詳しくない一般市民にはあたかも全てが違法であるかのように見せかけて糾弾しています。
株の百分割など、多くの合法的な行為を、マスコミは相手が拘置所の中にいて反論できないのをいいことに好き放題に批判しました。
例えば私が罪を犯して逮捕されたとして、私の趣味はワインですが、私が好きなワインの銘柄も批判の対象になるのでしょうか?とても馬鹿馬鹿しい話ですが、これまでマスコミがやってきたことはそれとほとんど同レベルです。
下級の週刊誌は言うに及ばず、大手新聞やTVもそうでしょう。
もし仮に見せかける意図が無かったとしても、法律に反しないことまで悪と断じるのは、傲慢な報道ではないのでしょうか。
何が正しく、何が間違っているか・・・その線引きは国家、人種、社会、地域、時代、個人によって異なり、誰かが一方的な主観による道徳感、正義感や常識で簡単に断定できるものではありません。
かつての慣習法に代わった近現代の法の支配とは、そうした主観からの断定的な正義や常識による私刑を防ぐために、客観的な法律が存在するものと解釈されています。
ただしそれは国家を束縛するものであっても、メディアの自由を束縛するものでなく、故にメディアには善悪を断定して報じても罰せられることはありません。
それによってメディアに芽生えた傲慢に、我々は目を向ける必要があります。
今日冒頭に挙げた『ネズミ踊り発言』。仮にも日本第二位の大手新聞である朝日新聞とは思えないものですが、この記事には朝日新聞記者の傲慢が満ちています。
『主張を押し付ける新聞はもう要らない』・・・業界第三位の毎日新聞が、去年山手線の吊革広告に大書したフレーズです。毎日がどこの新聞社に向けてこの言葉を発したのかは明確ですが、朝日はこの言葉に、真摯に耳を傾けるべきだったのではないでしょうか。そして、かつて最大手だった自社が何故読売新聞に退けられ二番手に転落したか、よく反省すべきだったのではないでしょうか。
この事件を知った後、私はこのディズニーランドの成人式について色々と調べてみました。この成人式は新成人の方が中心になって努力し、自主的に企画して行なわれたものだったそうです。
私も高校時代、二度ほど文化祭企画の指揮を執りました。ですから彼等の苦労やその末の達成感が容易に想像できます。
他人事とは思えないとまでは申しません。しかし、自分たちが苦労して成し遂げたセレモニーを『ネズミ踊り』『先が思いやられる』と、業界大手の朝日新聞に嘲笑われた時の彼等の気持ちを思うと、同じ小市民として、朝日新聞に対して強い憤りを禁じえない。
確かに、ディズニーランドでミッキーの踊りを見ながら成人式というのは、日本の伝統的な成人式の文化とは異なるでしょう。私も酒の席で友人と談笑していてもしこの話題が出たら、皮肉の一つは言っていたと思います。
しかし酒の席では許される笑い話でも、朝日新聞が記事にして全国紙に載せれば、それは許されないのです。
読めば傷付く人がいる、不愉快な思いをする人がいる、しかも彼等は犯罪者でも政治家でもなく、社会的に強い立場にも無い善良な小市民だというのに、圧倒的な組織の暴力でそれを攻撃した朝日新聞の意図がわかりません。
米国文化であるディズニーへの迎合を暗に批判したかったのでしょうか。ならば叩けばよろしい、その根幹を。東京裁判史観、戦後憲法、対米追従外交を叩けばよろしいのです。東京ディズニーランドを経営する株式会社オリエンタルランドの社長は私の大学の大先輩ですが、彼は東京ディズニーランドで日本独自の経営を志し米本国のやり方と一線を画してきました。それを知っている人間にすれば、TDL=対米追従という思考自体、不勉強極まりなく、残念です。
もしもこの記事の内容を、有名政治家が、例えば過激な発言で物議をかもす石原都知事が言っていたらどうだったか。朝日は間違いなく、今の私と全く同じ論法で石原氏の『失言』を糾弾することでしょう。
去年は石原都知事が「フランス語が時代遅れだ」と発言しマスコミはその批判で大盛況でした。朝日新聞は政治家叩きのためには社内に精鋭の論客を集めていて同社の政治面の社説は総理も毎日欠かさず目を通すほどの影響力ですが、身内の暴言は自由なようです(苦笑)。
一政治家よりもよほど影響力のある新聞が暴言を繰り返してそれを撤回も謝罪もせず、政治家には『失言』と断じて謝罪や辞任を迫るその姿のどこに、公共性を意識した報道があるでしょうか。
朝日新聞は本件で多くの人を傷つけた、その傲慢さを猛省して頂きたい。そして初心にかえった報道を心がけて頂きたいものです。

朝日のネズミ踊り発言から問われるメディアの公共性という問題は、規模こそ違え同様に公共性のある、すなわち不特定多数の人間の目に触れることを前提としたこのインターネットという空間を利用して皆様に情報を提供している我々にとっても、避けては通れない問題であります。

今回私がこの問題を取り上げたいと思ったのは、何もメディアを批判して悦に入りたかったからではありません。
批判したかったのもありますがその過程で、今皆さんがご覧になっているHP『異邦人達の終着駅』を媒体として不特定多数の人間に情報を発信する以上、我々にも程度こそ違いますが同様の責任があるということを、ネズミ踊り発言をきっかけに考えさせられました。
先ほども申し上げた通り、ディズニーランドの成人式が滑稽だという発言は、私だってするかもしれません。酒の席では、こういったことは普通に冗談で済まされます。
でもそれと同じことを、成人式を実行した人や参加した人も読む新聞という公共のスペースでやっていいのか、そこが今回のポイントでした。
HPの掲示板やブログでの発言でも、似たようなことを意識する必要が、特に運営する側にはあるのではないでしょうか。
振り返るに私は、友人との内輪の会話の延長線の意識で、HPで発言することが多かったように思えます。親しみをもってざっくばらんに面白おかしく時にシニカルな話をすることは、新聞のコラムと同様大切なことです。
しかしフレンドリーが過ぎて人を傷つけるようなことを言ってしまったら、それは問題です。ネズミ踊り発言を書いた記者も、面白ければ良いと軽い気持ちで書いたのでしょう。本人も、今は苦い気持ちでいるに違いありません。
私自身、友人たちの中でよくも悪くも『変人』と評価され、発言も奇抜で面白いと定評があります。しかしそれに調子に乗って発言に傲慢になってしまっては、知らないうちに自分がこの朝日新聞の記者のようになりかねないのです。
それこそこれは、対岸の火事ではないのです。これを見た時、よく自己を反省しなければならないという痛感は、あの記事への憤りよりも正直忸怩たるものがありました。
公の場での自己の発言には責任を。
そんな小学生でも知っていそうな当たり前のことの難しさを改めて感じた問題でした。






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