柳条湖事件―満州事変の幕を開けた四日間戦争

平成16年6月 冬月真弘




T.柳条湖事件の発生

1931年(昭和6年)9月18日午後10時20分頃、満州(現中国東北部)南部の中心都市奉天(現瀋陽)の北東約8キロにある柳条湖付近で、日本政府が所有する南満州鉄道の線路がなにものかによって爆破された。
爆発は極めて小規模であったため被害は僅少であり、軌道自体の損傷はほとんどなく、安全確認のためにレールを一本取り替えるだけでことは足りた。
事実、事件発生の半時間後に現場に南下してきた長春発の急行列車は何の支障もなく安全に通過し、定刻通り奉天に到着している。

事件発生の直後、奉天の関東軍独立守備隊は、この爆破を兵力約300〜400人規模の中国軍(張学良軍閥)による計画的な破壊工作だと発表、関東軍高級参謀の板垣征四郎大佐は独断でその夜の内に『報復作戦』を開始、10時半までに軍を出動させ、北大営を拠点とする張学良軍に対し、地域内各所で猛烈な夜間攻撃をかけた。

当時、奉天総領事代理であった森島守人が事件を知ったのは、爆破から1時間後であった。
そのとき彼は関東軍特務機関の事務所に呼ばれており、そこで初めて板垣大佐から、軍が出動した旨を聞かされた。
事件解決には平和的な外交交渉が必要であるとし、領事館の介入を提案した森島に対し、板垣大佐の隣に控えていた特務機関の花谷正少佐は軍刀を引き寄せ、卑しくも大元帥陛下(天皇)のもとにある軍の行動に干渉することは許さない、と脅迫した(極東軍事法廷・証拠245・森島宣誓供述書より)。

奉天の南方250マイルの旅順関東軍司令部は、午後11時45分と、翌9月19日の午前零時30分の二回にわたり、日中両軍の衝突の報告を受けた。
関東軍総司令官の本庄繁大将は19日午前1時過ぎ、板垣大佐の措置を『自衛手段』として追認するとともに関東軍作戦参謀の石原莞爾中佐が起案する作戦命令を承認した。満州に駐留する約一万の関東軍全部隊の出動を命じたこの作戦命令案の中には、朝鮮軍司令官林銑十郎中将への協力要請文打電も含まれていた(極東軍事法廷議事録18、892−5、19,326、同判決558より)。

「18日午後10時半頃、奉天の支那兵は突如我が守備隊を攻撃し、在奉天我が軍は全力を挙げて交戦中にして苦戦の状況なり。軍は直ちに全兵力を奉天に集中し奉天を攻略するに決せり。成るべく速かに増援隊を送られ度」

午前三時に本庄司令官が石原中佐と共に軍用列車で旅順から奉天へ向け出発するまでには、すでに関東軍は南満州鉄道沿線全域の重要都市に作戦展開しており、奉天では事件発生以前に既に旅順から運ばれていた24センチ榴弾砲が、極めて正確な照準で火をふき、北大営を砲撃していた。
中国軍による突然の鉄道爆破を受けて行われたにしては、その対応はあまりに迅速かつ整然としており、微塵の動揺も感じさせるものではなかった。

不意を打たれて慌てふためいていたのは、むしろ中国軍の方だった。
南満州鉄道で爆破事件があり情勢が緊迫していたにもかかわらず、北大営の中国兵の多くは攻撃が始まったとき眠っていたようである。
そこへ突然襲い掛かった砲火は兵営と弾薬庫群に注がれ、間もなくそれらは炎に包まれた。
不運にも異変に気付かなかった者たちは最後まで眠り続け、そのまま中で焼け死んだ。
逃亡を試みて兵舎から飛び出したところを射殺された者もいる。
だが当時東アジア最大といわれ、張一族が銀貨にして2000万ポンド以上つぎ込んだといわれる奉天兵器廠は無傷のまま関東軍に占領された。
それが皮肉にも戦闘中、関東軍に武器弾薬を供給することになった。

この時張学良元帥は奉天軍閥の主要な将軍たちと彼の精鋭部隊と共に、万里の長城の南、北京で、国民党南京中央政府に協力して華北の内戦の仲裁にあたっており、奉天を留守にしていた。そのため関東軍攻撃時北大営防衛の指揮は下級将校たちに任されていた。
彼等はこの緊急事態に対処するにはあまりに力不足であり、まもなく中国軍は恐慌と混乱状態に陥った。
後にリットン調査団はこの時の中国軍を全くの『無抵抗状態』であったと報告している。

19日早朝、午前6時30分には、北大営に駐屯していた約15000の中国軍は320人の死者と多数の負傷者を出して敗走、北大営は陥落した。
ついで8時30分には、奉天城壁内の市街地中枢と国際地区が関東軍に占領された。
東大営、奉天兵器廠、飛行場などは夜明け前に既に占領されており、飛行場にあった約60機の軍用飛行機を始め、中国軍が有していた装備の大部分が無傷で接収されていた。
さらに用意周到な関東軍は、占領後の奉天の治安維持のために数千人もの日本人『在郷軍人』を密かに動員していた。
ロイター電が『恐怖の一夜』と呼んだ夜が明けて、中国人市民が外へ出てきた頃には、在郷軍人たちは落ち着き払って奉天の市街警備に当たっていた。
ちなみに市内の日本人居留民は18日夜にあらかじめ警告を受けて日本政府の管理下にある南満州鉄道奉天駅に避難していたので、一人として負傷した者はいなかった。

南満州のその他の都市でも、同じような状況が繰り広げられていた。
南満州鉄道の北の終着駅であり、そこから東支鉄道によってロシアに通じている北方の中心都市長春は、18日深夜に関東軍の攻撃を受け、激戦の後19日午前3時に関東軍に占領された。
約5900人の中国軍守備隊は、市外の兵営で激しく抵抗した後、270人の死者を出して敗走した。
この攻防戦では関東軍側でも67名が戦死した。
日本領朝鮮との国境に接し、鴨緑江の河口にある重要な港湾都市安東は、18日夜に攻撃され占領された。
南満州鉄道の沿線にある四平街、鉄嶺、遼陽、公主嶺もまた電撃的に占領された。
中国軍の武器弾薬と政府財産は接収され、日本軍将校がその地域の管理に当たった。
国際連盟の調査委員会によれば、関東軍はこの『緊急計画』を『敏速かつ正確に』遂行していった。
南満州における日本の租借地関東州駐屯の日本軍である関東軍は、19日午前中に司令部を旅順から奉天に移動、全占領地域に軍政を発令した。
また本庄繁司令官と共に旅順駐屯の歩兵部隊と砲兵部隊も奉天に到着し、主力部隊の集結が完了した。

9月21日早朝、関東軍主力部隊は装甲列車で長春東方の吉林に移動、同地域の日本人居留民保護を名目に中国軍の掃討作戦を開始した。
ちなみに日本人居留民はその前夜、領事館からの警告を受けて既に避難済みだった。
一方在朝鮮日本軍は、19日午前一時の関東軍からの支援要請を受けて早朝に一個飛行隊を満州に急派、続いて21日午後にはソウルを出発した増援部隊一個旅団が天皇の命令を待たずに越境、満州に進入した。
これは吉林攻略に際しての関東軍の兵力不足を補うためであった。午後5時30分、抵抗らしい抵抗もなく、日本軍は吉林を占領した。
攻して、僅か四日間ほどで関東軍は、南満州の主要な都市と鉄道の占領に成功した。
関東軍が『自衛行動』であると主張したそれは、事前に綿密に計画されていなければ到底為しえなかった完全な奇襲作戦であった。

当時、中国で取材にあたっていたアメリカ人ジャーナリストのエドガー・スノーは、日本の満州占領を『単なる鬼ごっこ』と評している。
この占領はそれほどあっけないものであり、攻撃開始から四日間が経過した時点で関東軍はごく僅かな損害と引き換えに、イタリアの全国土にほぼ匹敵するほどの広大な地域を占領下においていたのである。
後に日本のみならず全世界の歴史の大きな転換点となった満州事変は、この大戦果で幕を開けた。


U.柳条湖事件へと至る道


日本ではファシズムは1925年(大正14年)、長州藩出身で在郷軍人会の有力者である田中義一元陸軍大臣が政友会総裁になった頃から次第に勢力を伸ばし始め、1930年(昭和5年)になって一気に台頭した。その引き金となったのは、4月のロンドン海軍軍縮条約調印である。

そもそも統帥権なるものは、明治憲法下において、大元帥たる天皇が軍隊を直率する、民権派の内閣には何があっても軍権を渡さない、というところから来ている。
これを兵権独立主義と呼ぶ。しかし、軍隊の装備については、財政規模との関係から常識的には内閣の権限に属しておるものであり、故に軍縮の権限も内閣総理大臣にあるはずだった。

ところが、海軍軍令部総長の加藤寛治大将、同次長末次信正中将等が、天皇の統帥権を論拠に、この軍縮条約の批准に反対した。
これに同調する野党政友会、さらには幾多の右翼団体は、日本海海戦の英雄で軍事参事官会議議長の東郷平八郎元帥をも担ぎ出し、内閣が統帥権を干犯したとして激しく非難した。これがいわゆる『統帥権干犯問題』である。
あくまで対米英協調を国益と考える浜口内閣は、岡田啓介・鈴木貫太郎・斎藤実の海軍三長老と元老の西園寺公爵の支持を取り付け、『国本社』会長の平沼騏一郎を議長とし、強硬派の伊東巳代治伯爵を条約審査委員長とする枢密院の抵抗をも押し切って、条約調印を強行した。

この年の11月14日午前9時少し前、陸軍の大演習を視察するために岡山に向かおうとしていた浜口雄幸首相は超特急つばめ号の一等車に乗り込む直前、統帥権干犯の徒として一右翼青年(右翼団体『愛国社』に属する佐郷屋留雄・23歳)から銃撃を受け、東京駅のホームにくずおれた。
翌年浜口内閣は崩壊。浜口の傷はついに回復せず、62年の生涯を終えた。

昭和5年2月の総選挙によって、浜口雄幸内閣の民政党は273名の絶対多数を確保していた。
大蔵省の高級官僚出身ながら貴族院ではなく衆議院に議席を持ち、蔵相・内相を歴任した実績を持つ浜口首相の庶民的人気に支えられた内閣といえる。政友会が地主を背景とした地方型政党であるのに対して、民政党は産業資本を背景とした都市型ブルジョア政党だった。

看板は2つ、田中義一内閣の恫喝外交とは対照的な外相幣原喜重郎男爵の国際協調外交・対中国内政不干渉方針と、もう一つは蔵相井上準之助の金解禁・デフレ・行財政改革である。
だが前者は大陸への積極的進出を目指す陸軍の路線と対立し、後者も緊縮財政の跳ね返りで軍備縮小に向いている以上、軍部との軋轢は避けられなかった。
この状況で5年11月に浜口首相がテロに倒れ、内閣の指導力は低下していく。
さらに世界恐慌のさなかに金を解禁(旧平価で)したために、想像以上のデフレに見舞われ、軍隊に兵士を供給している農村への打撃は、甚だしいものがある。
彼等の不満は、財閥、ブルジョア政党、重臣に向けられた。
治安維持法で活動を封じられた左翼に代わって、右翼がこれら民衆の不満を巧みに利用し、勢力を伸ばしていった。 

翌1931年(昭和6年)は、3月事件で幕を開けた。
3月事件とは、陸軍参謀本部第二部(情報部)のロシア班長だった橋本欣五郎中佐ら陸軍青年将校からなる秘密結社『桜会』(1930年9月下旬に結成。会員は中佐以下の現役陸軍将校に限定し、武力行使という手段も視野に入れた国家改造を目的とする)が、右翼の大立者である『行地社』の大川周明に指導され、宇垣陸軍大臣を担ぎ出して政権につけようとしたクーデター未遂事件である。
宇垣一成は、備前出身であったが長州閥にその能力を高く評価され出世してきた実力者で、陸軍の近代化に大きく貢献、大正末期の宇垣軍縮でも有名である。民政党内閣で陸軍大臣を勤めていたが、元老の西園寺公望公爵とも親交があり、もともと政権欲が強い軍人だった。これを陸軍省と参謀本部の宇垣一派が支援して、軍部独裁政権を作ろうと、右翼と結託して画策した。当時は、国際協調を重視する民政党の幣原外交の時代であり、軍部に鬱積した不満は、ロンドン条約調印で頂点に達していた。さりとて昭和5年の総選挙で民政党は圧勝しており、当分政友会が政権を奪還する可能性はない。こうした状況を一気に打開するための軍事クーデターであった。
計画は、社会大衆党右派の煽動の下に、一万人の労働者のデモで議会を包囲し、浜口内閣を総辞職に追い込み、 西園寺公望の協力を得て宇垣内閣を組織しようというものであった。
ちなみにこの三月事件ではクーデターに要する資金は参謀本部が支出した国費でまかなわれ、直前まで宇垣陸相はもちろんのこと、陸軍省の次官・局長・課長のほとんどが参加していた。それは、国家予算を用いて、一官庁である陸軍省や参謀本部が企てた政府転覆計画であった。
しかし彼等の期待に反して労働者は2千人しか集まらず、肝心の宇垣陸相は途中で計画からおりてしまった。橋本中佐から大川周明一派に供与されていた爆弾300個は、ついに使われずに終わった。
この出来事に遡ること二年前の昭和4年7月、関東軍作戦参謀の石原莞爾中佐は以下のような文書を起草している。

「満蒙問題の解決は日本の活くる唯一の途なり。
1 国内の不安を除く為には対外進出によるを要す
2 満蒙の価値
(イ)満蒙の有する価値は偉大なるも日本人の多くに理解せられあらず
(ロ)満蒙問題を解決し得ぱ支那本部の排日また同時に終息すべし
(後略)」

後の満州進出が、当時金融恐慌をよそに金権腐敗を繰り返していた政党等、国内の諸問題に対して高まっていた国民の不満をそらすための手段として企図されていたこと、関東軍だけが着目していたこと、そして南京国民党政権樹立による中国のナショナリズム高揚・排日運動強化に対し、関東軍が強い危機感を抱いていたことが、ここから推測できる。                                
特に日本が多くの権益を有する東三省・満州の不穏な情勢を、関東軍は憂慮していた。
満州にあって本来は日本の傀儡であったはずの奉天軍閥の若き総帥張学良は、この頃それまでの中国の軍閥がとってきたのとは違う態度を見せ始めていた。彼の最終的な目標は中国全土の恒久的統一であり、その目標を達するためには亡き父の宿敵であった蒋介石の南京政府との協調をも辞さないつもりであった。
それどころか張は蒋介石に対し、一種の個人的親近感さえ持っていたようである。1928年に張作霖の死後、親日派で父の重臣だった楊宇霆将軍と常蔭塊将軍を倒した張学良が後を継いだとき、蒋介石はこれを歓迎し、いわゆる『北伐』の続行は中止された。
南京政府は張学良に『総督』の位を与え満州支配を公式に承認したので、これに気を良くした張学良はその返礼として南京政府を『承認』した。
1928年12月29日、奉天市の官庁街に、いっせいに青天白日旗が翻った。満州の旗である五色旗は、姿を消してしまった。後に『東三省易幟』と呼ばれたこの出来事は、以後奉天軍閥は南京政府を中央政権として承認するという、張学良の意思表示であった。
1929年にエドガー・スノーが奉天の張学良邸を取材のために訪れたとき、南京政府との関係についてスノーに質問された張は次のように答えている。                                       
 「万事うまく言っている。ロシアと日本の侵入に抵抗する点でわれわれは完全に一致している。満州だけでは力が足りない。この国の独立を維持するためには中国との協力が絶対に必要だ。南京の中央政府は統一中国の可能性を示している。統一中国はこの国土に対して、われわれが昔から持っている権利を主張し、列強がそれを承認するに足る力を備えるものである。中央政権を唱える国民党の考えに私はまったく賛成だ」   
                              
更に彼は、「東三省は長城の南の諸省と同じく中国の一部であることを、満州人も中国人も認識しなければならない。両政府は合体すべきである。私は地方自治権の他のすべての権限を南京中央政府に委譲するつもりだ」と断言し、スノーを驚かせた。
1930年(昭和五年)に張学良は、南京で開催された国民党4中全会議に出席しており、奉天と南京の間の関係は、親密さを増す一方であった。

日本にとって不幸なことに、彼にとっての真の宿敵とは父の戦争相手だった南京政府ではなく、父の軍事顧問であり同盟者でありながら、最後に父を爆殺した日本軍であった。(1928年6月4日張作霖爆殺事件:日本政府は国民党軍便衣隊の破壊工作だと発表したが、実際は関東軍の謀略であり、高級参謀の河本大作大佐が計画し、関東軍独立守備隊中隊長の東宮鉄男大尉が現場の指揮を取り、朝鮮軍工兵隊が200メートルの電線と黄色火薬をセットして爆破、国民党軍の仕業に見せかけて、現場に中国人三人の死体を放置した)彼の政策は満州における日本の経済的政治的拡張を阻止し、やがては日本の『特権的地位』を覆そうというものだった。
その手始めに彼は、日本にとっての『生命線』である南満州鉄道の切り崩しに取り掛かった。

「われわれは輸送面での外国支配を打ち破ることになるだろう。輸送独占は全帝国主義者にとって、満州における重要な足場となっている」

張学良がまずやったことは、父の張作霖が南満州鉄道との間に結んだ5鉄道建設計画の満鉄への委託を破棄することであった。続く1931年(昭和6年)、国民党主導の国権回復運動の一環として、『満鉄平行線敷設計画』が正式に決定された。
一方、世界恐慌の影響で、南満州鉄道(満鉄)の経営は不振だった。
世界的に物が売れないので、輸送業者としても運ぶものがない。しかもおりからの銀安で、銀本位の中国で金建てで営業していた満鉄は料金面で不利になった。そうした時期に、中国側から『満鉄平行線敷設計画』が持ち上がったのである。満州に存在する延長2200マイルの鉄道資本の内70%の権益を勝ち取るために、日露戦争以来『人命と財産の高価な犠牲』を払ってきた関東軍にとって、これは由々しき事態であり、日本の国益に対する許すべからざる挑戦であった。                            
南満州鉄道を管理運営する日本政府としても、これは容認しがたい事態であった。中国が鉄道敷設に取り掛かると、日本政府はにわかに1905年の日中間の秘密議定書なるものを持ち出し、日本政府所有の南満州鉄道と『並行または競合する路線は建設しない』と中国が約束したはずだと主張した。

条約によって認められた日本の権利が侵害されたことに抗議する300件もの未解決案件が、日本政府によって中国側に申し立てられた。これに対し中国側は、われわれはそういった類の約束をした覚えはなく、議定書なるものは日本が捏造した虚構であり、実際にはそのような議定書など存在しないと反論、日本の抗議を無視して計画を続行した。こうして建設された多くの路線を、日本政府は既成事実として認めざるを得なかった。
中国側の暴挙を止めることができない日本政府に対し、関東軍は苛立ちを募らせた。
関東軍高級参謀板垣大佐は、この年の3月に次のように述べている。
                                                 
「満蒙問題の解決は現下支那側の態度より考察して、単に外交的平和的手段のみを以ってしては到底その目的を貫徹することが出来ないという結論に到達せざるを得ないのであります」   

関東軍の不安を裏付けるかのように、中国民衆による日貨排斥運動(日本商品ボイコット)は激しさを増していた。
この運動は中国本土のみならず、満州や東南アジアの華僑の間でも展開された。このため、1927年の日本の綿製品輸出総額は、前年に比べて13%も減少した。さらに1928年に入ると、中国向け綿布輸出は、五月に19万反あったものが、八月には27000反に落ち込んだ。
当時、日本の権益は中国、特に満州に集中していた。1931年の段階で中国には25万人を超す日本人居留民が居住しており、外国人人口の70%を占めていた。
中国の輸入額の25%は日本からであり、中国の輸出額の同じく25%が日本向けだった。
日本の年間対外投資総額10億円のうち、8億8000万円が中国への投資であった。
これは中国に対する海外投資の35.1%であり、イギリスよりもわずかに下回ったが、アメリカよりはるかに多かった。しかもイギリスの場合、中国への投資は全海外投資の5.9%、アメリカの場合は1.5%以下だったのに対して、日本は海外投資の実に81.9%を中国に投入していた。
そして、その三分の二以上が満州、特に南満州鉄道による広範な商工業活動に投資されていた。一説によれば1926年の対満州投資総額は14億円を上回り、そのうち7億5000万が満鉄であるとされている。
沿線地帯における工業の急速な発達は、かつて『長城の外側』の辺境として中国人から放置され、未開の地だった満州を中国一経済発展の進んだ先進地域に変貌させた。このような進歩の大部分が日本の功績であることは厳然たる事実である。
1929年の満鉄の収支は収入2億4000万円、支出1億9500万円で、利益は4500万円。この利益額は、同年の内務省の支出とほぼ同額に当たる。
その収入の中心はまず鉄道収入であり、ついで撫順炭鉱の収入である。鉄道収入とは主に貨物収入で、その成績を左右するものは、世界商品としての大豆であった。
ところが1931年、この日本のドル箱にヒビが入った。
1931年満鉄は、創業以来24年ぶりに初めての赤字を計上したのである。
赤字の主たる要因としては先ほど述べた世界恐慌による大豆・石炭価格の暴落、満鉄の扱う商品輸出の大幅減少があげられるが、張学良による新鉄道の敷設によって満鉄独占が崩れ、売り上げが減少した事も無視できない。
当然のことであるが関東軍は、この点に最も着目した。
さらに張学良は当時満州の対外貿易を独占していた日本の大連港に対抗して、営口や?廬島に新しい港の建設を進めていた。
満鉄の南の終点であり、日本の租借地関東州(1915年の中国との協定で租借権は99年に延長されていた)の玄関である大連は、日本がかつて日露戦争において多大な犠牲(20億円の戦費と12万の人命)を払ってロシアから勝ち取った良港であり、25年の歳月と莫大な費用をかけて日本が築き上げた極東屈指の近代都市であり、日本のアジア進出の橋頭堡であった。
赤レンガと大理石を積み上げた林立する高層建築、舗装された広い大通、路面電車やバスなど欧州の都市に比肩する交通システムを誇るこの優雅な都市は、中国第二の規模を誇る港湾施設を擁し、全中国の貿易総額の23%、満州貿易の70%を扱っていた。
大連が建設されて以来、満州貿易の量は16倍にも増加した。大連は大陸における大日本帝国の威信と繁栄の象徴であった。故に大連への挑戦は、少なくとも関東軍将校たちにとっては、帝国への挑戦と同義であった。                                             
一方、本国では、270名の絶対多数を占めている民政党が、浜口総裁の遭難によって、党人派と官僚派に分かれて派閥争いを始める。
選挙の神様と言われ大勝利に貢献した安達派と、かつて首相を勤めた若槻や陸相の宇垣をかつぐ官僚派の抗争である。1931年(昭和6年)4月14日、政争の結果復帰したのは若槻礼次郎元首相であった。かつて金融恐慌の際、天皇の勅令によって国費2億円を支出して台湾銀行を救済しようと計画、勅令を審議する枢密院に計ったところ、委員長で対外強硬派の伊東巳代治伯爵に幣原外相の『軟弱外交』についてこき下ろされた挙句案を否決され失脚した、右派にとっては因縁のある人物である。しかも彼はあのロンドン会議において全権を務めている、いわば『国賊』である。
政友会にも大命降下せず、陸軍派の宇垣にも政権が行かなかった。
一方で南京では国民党政府が欧米列強及び日本との間で治外法権撤廃交渉を開始していた。当然満州もその対象に含まれていた。幣原外相は中国ナショナリズムに一定の評価を与えており、前提としては条約上の権益は守るが、中国全土との貿易を優先しているので満州での妥協も辞さない方針であった。やり場のない焦燥が、関東軍を覆い始めていた。    

では枢密院の伊東伯爵から『軟弱外交』と弾劾され、軍部ばかりか一般世論の非難も浴びた幣原外交とは、一体どのような理念に基づいていたのか。彼の部下であった佐分利貞男は、幣原外交の方針についてこう語っている。      
                               
「猫額大の領土と年々7,80万の人口増加に苦しんでいる我国としては、産業立国によって国民経済生活の調節をする以外に施策のありよう筈はない。しかも産業立国当然の帰結として、海外市場の開拓確保を必要とするは論を待たざる処である。即ち産業立国の政策は経済外交の推進、外交の経済化によって初めて完成する。ところで、国民生活の前途を国土の膨張とか拡張とかいうような事で打開することは、国際協調を破る虞れがある。日本は専ら国内に工業を興し、外国への輸出通商の振興によって国家的な利益を上げ、それによって将来の国民生活の安定を期する、こういう事で行くより他に方法はない。」   
                                 
まさに、日本が第二次大戦後一貫して取ってきた政策そのものである。第一次幣原外交の期間中、対中国貿易は、幣原の協調主義によって排日気運が冷め、2億8千万円から4億6千万円へと急激に伸びている。幣原喜重郎は、穏健派ブルジョア政党である民政党の大看板であり、しかし関東軍にとっての閉塞状況の『元凶』であった。政府と関東軍の路線対立は、もはや修復不可能な域まで達していたのである。                                        
5月4日、中国は翌年1月からの治外法権撤廃を一方的に宣言した。
関東軍の危機感は強まるばかりである。5月29日に板垣大佐は講演で次のように語った。

「漢民族社会も漸く資本主義経済に進まんとしつつあるを以って、我国も満蒙における政治軍事的施設を撤回し、漢民族の革命と共に我が経済的発展をなすべしとの議論は傾聴に値するが」=新聞の論調や幣原の政策のこと。
「支那人が果たして近代国家を造り得るや頗る疑問にして寧ろ我国の治安維持の下に漢民族の自然的発展を期するを彼等の為幸福なるを確信する」                          

昭和6年6月19日に参謀本部は陸軍省と会議を行い、「満州問題解決方策大綱」を作成した。
主催者は参謀本部の建川少将である。

1 張学良政権の排日行動の緩和については、依然外務当局の交渉を主とし陸軍としては関東軍と緊密に連絡し、その行動を慎重ならしめる。

2 右の努力にもかかわらず、排日行動が熾烈となるにおいては、あるいは軍事行動の必要をみることとなろう。

3 満州問題の解決には、内外の理解を得ることが絶対に必要である。これがため陸軍大臣は閣議を通じ、軍務局と参謀本部第二部とは緊密に外務省関係局課と連絡のうえ、国民および列国に対し、満州における排日行動の実情を承知せしめ、万一にも軍事行動の必要をみる場合においても国論の支持を得、列国をして反対圧迫の挙に出さしめぬよう事前の施策を周密にする。

4 軍事行動を必要とする場合の所要兵力および行動をいかに指導すべきかについては、参謀本部において立案する。

5 内外の理解を深めるための施策は約1ヵ年、すなわち昭和7年春までにその成功をおさめるよう努力する。                                                                 

1931年(昭和6年)6月、奉天特務機関の花谷正少佐が東京に飛んだ。
そこで彼は陸軍中央部に、石原・板垣ら関東軍の満蒙制圧計画をひそかに打ち明けている。
打ち明けた相手は、参謀本部第二部(情報部)のロシア班班長橋本欣五郎中佐と同支那班班長の根本中佐、参謀本部第二部長の建川少将、支那課長の重藤大佐。そして永田鉄山大佐。
陸軍省軍事課長を務め、スイス駐在武官時代にあの『バーデンバーデンの密約』に参加したことで有名であり、石原莞爾中佐の尊敬する同志でもある。
6月といえば19日にさきほどの「満州問題解決方策大綱」が出来た時期と重なる。ここで陸軍中央部と関東軍は、時期の問題はあれ、一つの方向に向かって動きだした。他方橋本と根本は、国内体制整備という名目でのクーデター計画に向かって動き出す。
これが後の十月事件である。(満州事変を画策した石原たちと、10月事件を起こした橋本たちの思想は、国内では腐敗した政党政治と財閥を打倒して天皇の名の下に富の公平な分配を計り、国外では満州と蒙古を併合し、それを閉塞した日本人の新天地としあわせてソ連に対する戦略基地を構築、中国に対する勝利の後、西欧の帝国主義侵略者に対する汎アジア運動を指導して、海外への拡張をはかろう、というものであった:極東軍事法廷証拠2177Aより抜粋)
会談後永田大佐は、奉天城を攻撃するための重砲部隊を旅順から奉天の石原に密かに移送させた。                                               
1931年(昭和6年)7月、万宝山に入植しようとする朝鮮人農民に対して中国人農民が実力で水路破壊を行った。これが朝鮮で誇大に報道され、朝鮮で反中国人暴動が発生。事件が事件を呼んで、中国の反日気運に拍車をかける。一方関東軍は天才戦術家の石原莞爾中佐のもとで、満蒙制圧のための綿密な作戦計画を着々と練り上げていた。実戦さながらの予行演習が、極秘裏に繰り返された。


既に戦争の青写真はほとんど完成しており、欠けているものは一つしかなかった。すなわち、戦争を起こす口実である。                                     

『中村事件』が発生したのは、そんな最中のことであった。
日本陸軍参謀部員の中村震太郎大尉が、内モンゴル奥地の国境地帯を極秘で『旅行中』に奉天軍閥の部隊に逮捕され、不法な裁判にかけられ、軍事探偵として射殺されたのである。彼の助手だった予備騎兵曹長井杉延太郎とロシア人一人、モンゴル人一人も処刑された。
中村大尉は軍事地図と麻薬を所持していたという嫌疑であった。
かねてから中国政府は、日本の工作員が満州及び内モンゴルで麻薬を使って現地の部族長を買収したり、権益や土地を入手したり、叛乱をそそのかすなど、破壊工作をやってきたと非難していた。しかも彼は軍人としての身分を隠すために、民間旅券を使っていた。
しかしこういった話は、日本本国では全く問題にならなかった。
同胞が中国人に殺されたことこそが問題とされるべきだ、多くの国民はそう考えたのだ。

外務省と軍部とで交渉権をめぐるお定まりの縄張り争いが起きる中、関東軍はこれを満蒙問題解決の端緒にしようと動き出した。

世論操作である。
この事件は発表されるや否や、日本国民を激怒させた。外交努力による事態の平和的解決を図る幣原外相に対して、新聞はいっせいに対中国『軟弱外交』を非難した.政府や新聞社には満州出兵を要求する市民からの請願書が殺到した。
この好機を、陸軍が逃すはずがなかった。軍用機が日本の都会の空を飛びまわり、『中村大尉虐殺事件』について、強い報復手段を呼びかけたビラをまいた。
8月1日、陸軍の人事異動が行われ参謀本部の情報担当である第二部の建川少将が作戦担当の第一部長に昇格した。つまり満州問題解決案を策定した当人が、実行権限を付与されたのである。参謀本部は『自明の運命』である戦争に備えて緊張した姿勢をとり、軍事行動への機は刻一刻と熟していった。
東京に、開戦前夜を思わせる暗雲が漂い始める。                                   
8月1日の陸軍人事異動によって、関東軍司令官に本庄繁大将が、台湾軍司令官に真崎甚三郎大将が親補された。
この2人に朝鮮軍司令官の林銑十郎大将を加えた軍司令官会議が8月3日に開かれた。陸軍中央部側の出席者は、陸軍次官杉山元、参謀次長二宮治重、軍務局長小磯国昭、第一部長建川美次、第二部長橋本虎之助、軍事課長永田鉄山、その他「満蒙研究者」たちであった。ここで軍中央は、満州問題の積極解決を図る発言はせず、陸相や参謀総長の意向を確かめようとする本庄大将に、「正式に報告をすることを控える」旨の発言を繰り返し、暗に関東軍による独断専行を求めたとされる。真崎、林の両大将は、勇猛で鳴らしており、本部の意向に賛同した。このシナリオは建川少将のアイデアによるものであったとされる。
その場の雰囲気から、慎重派の本庄大将もついに決断を迫られた。 昭和6年8月4日には、軍司令官・師団長会議が開かれた。
この席上で南陸相(4月の内閣改造で宇垣陸相と交替)の訓示が行われた。

テーマは

1 編成装備

2 軍制改革

3 満蒙問題

4 国際軍縮会議

注目すべきは2の軍制改革で「門外無責任の位置にある者ないし深く国防に関心せざるものに至りては、ややもすれば軍部が国家の現況に盲目にして不当の要求を敢えてするかの如く観測し、あるいは四囲の情勢を審らかにせずして妄りに軍備の縮小を鼓吹し、国家国軍に不利なる言論宣伝を敢えてするの所存少なからず」と、軍縮の世論に正面から不満を表明している点である。
さらに3の満蒙問題では「我国民元気の萎縮に伴う内外の国威の退潮」を問題の原因としてあげ、「職を軍務に奉ずる者は益々奉公の誠を堅くし、教育に訓練に熱と誠とを尽くし、以ってその本分を全うするの用意に欠くる所なきを期せられたし」と異例の意識高揚を図り、しかも新聞発表まで行った。   
                                                    
一方先の選挙で民政党に100名近い大差をつけられた政友会は、政権奪還の機会を虎視眈々と狙っていた。
幣原外相の軟弱外交は、そんな彼らの目には格好の突破口と映った。当時政友会幹事長を務めていたのは、田中義一内閣の外務政務次官で実質的に外務大臣であり東方会議を取り仕切った実力者の森挌である。万宝山事件が起きると、政友会は森らの満州視察団を派遣する。
8月31日に帰国した森らの視察報告は、「今日は日本がいかに協調し譲歩するも既に日支関係を合理的に展開することは不可能」であり、「この状態を挽回し日支関係を合理的位置に取り戻すためには、国力の発動に待たねばならぬ」と武力侵略を煽るものであった。
かつてロンドン条約調印時に統帥権干犯問題で浜口内閣を糾弾した強硬派の犬養総裁は9月3日に党大会で強硬演説を行う。政友会全体が武力発動に大きく踏み出した瞬間であった。             
昭和6年8月25〜26日、10月事件の首謀者たちが会合を開く。首謀者は橋本欣五郎中佐と大川周明だった。会合参加者は、

陸軍側 菅波三郎、大岸頼好等の青年将校

海軍側 藤井斉、三上卓

民間側 西田税、井上日召

このうち海軍側は5・15事件を引き起こし、陸軍側と西田税は後の2・26事件へとつながっていき、井上日召は、血盟団事件で井上準之助や団琢磨をテロに倒していく。この時点での狙いは、満州問題解決のための国内体制改造だったが、10月事件は、その後のファシズムによるテロの原型となるものであった。                                               
昭和6年は9月に府県議会の選挙を控えていた。政友会が幣原外交批判を進めると、これへの防御体制として、民政党の右派も、対中国強硬姿勢に転じる。安達謙蔵一派の中野正剛がその中心だった。もともと幣原喜重郎は民政党員ではなく、党人派からは官僚派として批判されやすい立場にあった。一方、関東軍の石原中佐は中村大尉事件に関連して永田大佐に私信を送り、


「今回の事件においても若し軍が直接東北軍憲の首脳者と交渉し大決意を以ってこれに臨まば全般の状況上、生等は最短期間に解決し得る確信を有したるものなり。但しいやしくも我等事に当たる以上武力使用の決心を蔵するを要するは論をまたず。外務当局の厳重抗議により迅速に事を解決するが如き全く一の空想に過ぎず。若しもかくの如きこと可能ならば数百の未決事件総領事の机上に山積する訳なく従って今日喧しき満蒙問題なるものは存在せざりしこと明らかなり」

と論じて武力発動の意図を示している。そしてこの頃、満州事変関係者の血判が作られた。 
昭和6年8月末、花谷少佐は再び上京して陸軍中央部と会談した。参謀本部からは二宮治重参謀次長、建川美次第一部長が、陸軍省からは小磯国昭軍務局長、永田鉄山軍事課長が参加した。河本大作の張作霖爆殺事件の轍を踏まないように、満州で武力衝突が起きても現地軍の行動に自由裁量を確保するためである。もともと計画に乗り気である参謀本部は二宮・建川とも趣旨を了解した。陸軍省は閣議に陸相を送っている都合上、どう考えても幣原外相との衝突を免れないことから、表向きには慎重姿勢をとった。しかし、それがあくまで建前に過ぎず、腹の底は志を同じくしていると見て取った花谷少佐は「やれる」と判断した。その後で橋本、根本両中佐に国内改造先行を説かれるが、花谷はこれを丁重に拒否する。慌てた橋本中佐は支那課長の重藤大佐と相談して、満州事変開幕に要する機密費5万円の手当てに奔走し始める。                     
昭和6年9月10日、奉天特務機関長土肥原賢二大佐が上京した。


有能な情報将校として本庄司令官(土肥原は本庄が陸軍士官学校で教官をしていたときの『最も教えがいのある』教え子であった)を影で支える土肥原大佐は、東方のロレンスとも言うべき魅力的な人物である。

中国各地で極めて政治色の濃い特殊任務に従事してきた頭脳明晰なこの男は、35歳の若さで既にアジアにとって欠くことのできない人物として認められていた。奉天・北京・上海・天津の社交界では彼は神出鬼没、あるときは財閥総帥の友人であり、あるときは地方有力者の政治顧問であった。

彼は進んで中国人の暮らし方や話し方を身につけ、中国語はペラペラで、いくつもの方言をなまり無く操れた。彼は華北のいたるところで注目される存在となった。
時には学者や商人の着る長い寛衣をまとい、奥地をたびたび旅行して、中国の農民が役人・軍人・国家をどう思っているかを詳細に調べ上げた。
彼は中国風のものの考え方を研究し、中国人心理の奥の奥まで知り尽くしているので、自分もまるで中国人のように考える。パーティーで彼に会った有力な将軍や高官たちは、皆彼と友人になりたがり、その中国文化に対する広い知識に驚嘆した。
事実、彼はたいていの中国人よりも、中国のことを知っていた。こうして彼は行く先々で人々から信頼され、情報を集めることに成功していた。
また彼は当時幾多の軍閥が群雄割拠していた北京において、いくつかの政変にも影で関与していた。特に権力の座を追われた親日派の有力者を『洗濯籠』に入れて逃がすことは、彼の得意技だった。彼が暴徒に追われていた安福派の徐大統領を洗濯籠に入れて天津まで逃がしたエピソードは、あまりに有名である。後に彼はこの得意技を活かして、新満州国の建国に一役買うことになった。                                                 

その日の彼の上京目的は、その後の中村大尉事件の進捗や現地の状況報告であった。報告を受けたのは南次郎陸相、金谷範三参謀総長、杉山元陸軍次官、二宮治重参謀次長、永田鉄山軍事課長らである。既定方針どおり満蒙問題解決に武力使用を辞さないことが、ここで正式に決定される。翌11日、杉山、二宮、永田、土肥原の四者会談では、武力報復の具体的方法までが議論されている。
翌日の12日、南陸相は元老の西園寺公望公爵に呼ばれて満州の不穏な動きについて牽制されるが、陸軍の完全な意思統一を背景に勇み足になっている南は強気に突っぱねた。そして記者会見でまで「満蒙問題は今こそ根本的に解決すべきだ」との発表を強行する。国際感覚豊かで西園寺とも親しかった宇垣陸相が朝鮮総督として軍中央を去った今、彼らを止められる者はいなかった。軍部全体が満州武力侵略へと走り始めたのである。

昭和6年9月14日の深夜、奉天総領事から幣原外相に緊急極秘電が入った。内容は、「関東軍独立守備隊が中村大尉事件交渉応援のための軍事行動を9月18日に予定している」というもの。関東軍では9月18日武力発動という計画が事前に外務省側に露見した形となった。おりしも、中国側が内部調査によって中村大尉殺害の事実を確認し軟化をし始め外交交渉だけで決着できそうになって来た時期でもあり、幣原外相は南陸相と金谷参謀総長に計画の存否を尋ね、厳重に釘を刺した。外相の剣幕に圧された首脳二人は慌てて建川第一部長を呼びつけ、満州出張を命じる。この辺りが首脳の態度に定見のないところだが、命じられて困ったのは建川部長である。自分が本庄司令官に会ってしまえば、立場上止めざるをえない。さりとて関東軍にここまで進めて来た計画を捨てさせるには忍びない。彼はひそかに大川周明に連絡して自分の満州行きを石原参謀に連絡するよう依頼する。一方、桜会の橋本・根本中佐も建川少将の真意を確かめると、奉天特務機関に極秘電を打った。
         
「バレタ タテカワユク マエニヤレ」
                                     
「コトアラワレタリ タダチニケッコウスベシ ナイチハシンパイニオヨバズ」 

 
関東軍は今まで何度も陸軍中央部に煮え湯を飲まされている。張作霖爆殺事件の時も、結局何事も起こせなかった。今度も建川部長が来てしまえば、その二の舞になる。しかも外交で決着すれば、中村大尉事件を突破口に出来なくなるばかりか、外務省の権威が高まり、関東軍は中国政策に今後介入できなくなる可能性さえある。建川部長は、わざわざ朝鮮から奉天経由で旅順という遠距離旅行を計画し旅順の関東軍司令部での本庄司令官との会談を引き延ばした。板垣高級参謀は、独断命令を出さざるをえまいと決意する。司令官にも建川部長にも責任を及ぼさずに目的を達成するには、建川部長が本庄司令官に会う前に、板垣高級参謀の手で武力発動する必要があった。
                                                     
昭和6年9月18日、正午前に建川部長は出迎えに出た板垣高級参謀と本渓湖駅で会談する。『シナリオ』どおり会談は長引き、そして建川部長が本渓湖駅を出発したのが午後5時過ぎ。奉天駅への到着は午後7時過ぎとなった。既に日も暮れているので、このまま本庄のいる旅順司令部まで行くのは止め、今日は奉天に宿泊してはどうかと、板垣は建川に提案した。また、奉天に留まっても直ちに奉天特務機関との正式協議には臨めない。翌朝ゆっくり話そう、ということになる。 
そして、その奉天で午後10時過ぎ、満鉄線路爆破に続く『作戦』が開始された。永田鉄山が石原莞爾のために輸送した24センチ榴弾砲が奉天城北大営を砲撃して満州事変の火蓋が切って落とされたのである。皮肉なことに、奉天軍閥はこの日、中村大尉の殺害を認め、謝罪を含めた形の外交交渉に応じることを、外務省に通告してきていたのであった。                         
奉天総領事館は、午後11時過ぎに中国側から不抵抗主義を取る旨の通報を受け取った。深夜零時にも重ねて不抵抗主義の通告を受ける。一方、板垣大佐は独断で必要な武力発動命令を出し終わると、旅順に帰任途中の土肥原賢二特務機関長宛てに第一報を打電。これが旅順に届いたのが午後11時45分である。林奉天総領事は、武力衝突はあっても中国側が不抵抗であるため、外交での解決を板垣大佐に要請した。19日午前1時過ぎ、本庄司令官は石原作戦参謀の起案する作戦命令を承認するとともに板垣高級参謀の措置を追認する。同時刻に陸軍中央部に午後11時過ぎに花谷少佐が打電した第一報が入る。通報を受けた南陸相の感想は「来るべきものが来た、堪忍袋の緒が切れた」であった。午前3時、本庄司令官、石原作戦参謀が旅順から奉天へ出発する。

第一報を受けた東京では、19日午前7時、参謀本部と陸軍省の幹部が非常呼集された。陸軍中央部のスタンスは、「関東軍に危険が迫るのなら増援軍を派遣する」で一致する。一方、午前8時半に朝鮮軍の林軍司令官から増援行動の報告が入る。このまま朝鮮軍が独断で増援すると林軍司令官の越権になるため、参謀本部は天皇の勅命を得るための準備に動き出す。9時45分、南陸相は天皇陛下に拝謁して奉天での武力衝突を奏上した。

ところがここで思わぬ蹉跌が起きる。
昭和天皇は奈良武次侍従武官長を通じて、関東軍の活動範囲について満鉄の沿線に限定する、つまり不拡大の指示を出したのである。英国留学経験もあり国際協調主義者であった裕仁天皇陛下ならではの指示であった。                                         

9月19日午前10時から緊急閣議が召集された。南陸相は、参謀本部と合意した朝鮮軍の増援案を持って閣議に臨んだ。
閣議に入る前に若槻首相は南陸相に、「関東軍の行動は真に軍の自衛のための行動か」と質問し当然との回答を受けていた。ところが閣議では幣原外相が奉天総領事からの報告電を読み上げ、関東軍の謀略であるとのニュアンスを示し、満州事変への疑惑を表明するという、予想外の事態が起きる。そうなると南陸相としては、謀略ではないことの証明に躍起にならざるを得ず、増援軍の派遣を提案するどころではなくなってしまう。外相の狙い通り、閣議はあっさりと事変の不拡大を決定して散会してしまった。このため、参謀本部は朝鮮軍の派兵を別命あるまで待機させざるを得なくなる。その日の午後3時、金谷参謀総長が天皇に拝謁して、朝鮮軍の独断派兵を阻止した旨を奏上している。                                 
9月19日午後2時から3時の間に、陸軍三長官会議が開かれ、南陸相、金谷参謀総長、武藤教育総監が善後策を討議している。この結論は、不拡大であり関東軍の旧態復帰であった。金谷参謀総長はこの結論を持って天皇に拝謁したことになる。ところが、建川第一部長の留守を預かる今村均第二課長は当然これに反対であった。結局午後3時前後に打電された本庄司令官宛て電報は、

「1 9月18日夜以後における関東軍司令官の決定及び措置は機宜に適したるものにして帝国軍隊の威重を加えたるものと信ず。

2 事件発生以後の支那側の態度等に鑑み事件処理に関しては必要の度を超えざることに閣議の決定もあり従って向後軍の行動はこの主旨に則り善処せらるべし」

として関東軍の行動を追認し、旧態復帰命令にはなっていない。陸軍首脳部の決定事項は何一つ実行されなかったのである。                                         
参謀総長の不拡大指示電は、午後6時過ぎに奉天に到着する。これを受けて奉天では板垣大佐以下の同志が対策を練り直した。午後7時までに事変拡大の意見具申電を軍中央に打電する。しかし午後11時、独断派兵を止められた朝鮮軍から、別命待ちであるとの状況報告電が届く。いよいよ切羽詰まった板垣・石原両参謀は、ちょうど来奉していた建川部長と協議を始めた。建川部長の意見は、張学良軍が不抵抗主義を貫徹していることから、もはや武力侵略は必要がなく、親日政権の樹立で十分目的を達成できるという趣旨のものであった。中央の不拡大方針をも受けた慎重な構えである。板垣・石原両参謀は、ここまで来たら外務省に主導権を戻すわけには行かず、満州全土の武力占領を主張した。結局妥協案として出来上がったのが、吉林、長春に限定しての兵力進出であった。9月20日の午前1時頃までに、協議はまとまった。                

朝鮮軍から数度にわたっても増援軍派兵の意見具申電を受け、ついには派兵できない理由の説明まで求められた参謀本部は、次のように返電している。

1 朝鮮軍の出兵は勅命がなければ不可能である。
2 奉天付近の情勢がやや緩和しており、特に状況変化がない限り、当分事態を拡大させないという閣議決定には参謀総長も同意している。

これは、20日午前零時過ぎに今村課長が金谷参謀総長の決裁を受けて発信したものである。他方参謀本部では併行して、朝鮮軍が越境派兵した場合に備え、金谷参謀総長が天皇に上奏して勅命を受ける準備に入っている。止めておきながら独断越境を想定して準備するところに、参謀本部の本心が窺える。                                            

9月20日午前10時から陸軍首脳会議が開かれた。今度は杉山元陸軍次官、二宮治重参謀次長、荒木貞夫教育総監部本部長の次官級実力者会議である。この中で三人は「軍部はこの際満蒙問題の一併解決を期す。若し万一政府にしてこの軍部案に同意せざるにおいては、これに原因して政府が倒壊するも毫も意とする所にあらず」との強硬方針と旧態復帰断固反対を申し合わせた。長官たちとまるで逆の内容で合意しているのが興味深い。一方、午前11時過ぎ、関東軍に朝鮮軍から金子参謀が到着し、参謀本部の派兵阻止論を伝えるとともに派兵の名目を整えるよう伝言する。これが石原中佐の決意を固める結果となった。朝鮮軍は既に越境準備万全であり、関東軍の守備が手薄になる状況さえ作り上げれば、独断越境の口実ができる.石原はその『口実』をつくるべく、すぐさま新たな作戦を実行に移した。
20日午後9時45分、本庄司令官のもとに吉林情勢の緊迫を伝え、派兵を懇請する吉林居留民会長からの電報が届けられる。これに応えて関東軍が遠い吉林に派兵すれば、奉天付近の防衛ががら空きになり、それを補うため、という朝鮮軍の越境の名目が出来るという石原の戦術であった。ところが石原の予測に反して、本庄司令官は首を縦に振ろうとはしなかった。

参謀本部が朝鮮軍の派兵を阻止しており、陛下も政府も不拡大方針を打ち出している状況において、ここで踏み出すことは日中全面戦争になる恐れがあり、慎重派の本庄司令官が反対したのは当然のことであった。

三宅参謀長がいかに進言しても首を縦に振らないために、ついに板垣大佐、石原中佐等が軍司令官室に押しかけ、直談判となった。
本庄司令官は三宅参謀長と板垣高級参謀にだけ残るように命令し、そこで板垣大佐との押し問答が始まる。
それまで天才戦術家石原のバックアップに徹してきた板垣が、このとき初めてその本領を発揮した。
『板垣大佐はもし反対されれば連袂辞職も辞せずと主張を繰り返した』、と資料にはあるが、実際には盛岡出身の彼はどちらかというと口が重く、弁舌で鳴らしている他の参謀たちと比べ、議論はそれほど得意ではなかった。
板垣をよく知る人が言う。「板垣という人はウイスキー一本くらい空けると能弁になってくるが、へいぜいは訥弁で、それは本人も知っているから無口で無表情である。本庄司令官を口説いた夜も恐らく、何もしゃべらずにただただ本庄司令官をにらんで、三時間半座りとおしたのだろう」板垣その人をよく語る話である。
陸士の成績も芳しくなく、陸軍大学入学も同期生よりは三年も遅れた。そのため石原のようなエリート幕僚将校とは異なり隊付将校としてほとんど第一線の部隊勤務で通した、いわゆる酸いも甘いも噛み分けた実践的な軍人であった。
「板垣さんの足に、もし、ブスっと、針を突き刺したとしたら、板垣さんは、一時間ばかりたってから、初めてアッ痛いときがつく人だよ」とは、石原の板垣評である。大賢か、大愚か、板垣の人物の大きさを例えた石原一流の言葉といえよう。
この板垣の粘り強さが、歴史を大きく動かした。他の参謀たちの間に諦めの色が濃くなる中で、軍司令官本庄繁の真正面に座って、ただ一言のイエスを引き出すためにこの人は粘り抜いた。ついに21日午前3時、吉林派兵の承認を勝ち取ることに成功する。満州事変が実質的に拡大し始めた瞬間であった。


V.柳条湖事件は何をもたらしたか


東京では、9月21日午前10時から閣議が開かれた。南陸相はようやく朝鮮軍の増援を提案したが、閣僚の反対は強く、現状維持と旧態復帰が半数ずつという結果になる。奇妙なことに首相若槻礼次郎だけが南陸相に賛成した。このまま行くと、満州事変が尻すぼみになることは明白であった。ところが、午後2時40分、参謀本部に朝鮮軍の独断越境報告電が届く。こうなれば閣議などは無関係、参謀総長は単独帷幄上奏権によって、朝鮮軍派兵の大命を要請する準備に入った。関東軍→朝鮮軍→参謀本部の予定されたドミノ倒しの始まりである。   
           
9月21日午後5時、金谷参謀総長は朝鮮軍独断越境の既成事実を片手に朝鮮軍部隊の満州派遣を内容とする大命を奏上しようとする。
ところが、これを聞いた鈴木貫太郎侍従長と奈良武次侍従武官長に制止された。理由は、「聖上は首相の承認なく允許せらるることなかるべきを以って、かくの如き無法の挙を避け、ただ事実を奏上し、その後の処置は暫くご猶予を願うを至当なりとす」というもので、裕仁天皇が自ら天皇機関説を実践していたことを表しており閣議承認なければ裁可せずとの方針が示されている。
また、陸軍省軍事課長永田鉄山大佐が単独上奏に徹底的に反対したために、結局参謀本部は沈黙を余儀なくされた。永田の反対理由は、閣議が予算措置を否決した場合に責任が天皇に帰着することを懸念したものであった。
                 
9月22日午前10時から、朝鮮軍独断越境後の始めての閣議が開催され、その予算措置が審議された。若槻首相は「出兵しないうちならともかく、出兵した後にその経費を出さなければ、兵は一日も存在できない。食うものもないことになる。それならこれを引き揚げるとすれば、一個師団くらいの兵力で関東軍が非常な冒険をしているので、絶滅されるようなことになるかも知れん」として、閣僚の賛否に関わらず首相の責任で処理すると宣言した。この辺りが怜悧な官僚であった若槻礼次郎の限界といえよう。一見合理的に見えながら、結局自らの内閣が選択した不拡大の方針を覆し、国家として事変拡大の道を選択したのである。閣議は予算措置を取るだけ、という統帥権暴走の前例を作ることになった。
                                          
9月22日午後4時過ぎ、若槻首相の予算措置奏上の後に金谷参謀総長が、朝鮮軍出兵の允許を上奏した。ここで天皇は「此の度は致し方なきも将来は充分注意せよ」と異例の叱責をいったとされる。実は9月23日午前、天皇に拝謁した若槻首相は「不拡大の政府方針は至極妥当と思うから、その趣旨を徹底するように」との発言を受けていた。これもまた日頃の政治に中立的な天皇の言動から見れば異例の強い意思表示である。国際協調主義者の天皇から見れば、中国領土への侵略であることがいち早く見て取れ、誰よりも強い警戒感を持って不拡大方針を貫こうとしていたのではないかと思われる。
                                         
9月22日午前中に、関東軍司令部では満州事変の処理策についての会議が開かれた。
板垣大佐・石原中佐の原案は、あくまで満州全体を日本の領土に編入することである。しかし軍中央はその方針に反対であり、来満中の建川部長も傀儡政権の樹立までが限界と主張している。協議の結果、「我が国の支持を受け東北四省及び蒙古を領域とせる、宣統帝を党首とする支那政権を樹立し、在満蒙各民族の楽土たらしむ」という方針が決定される。支那政権の樹立という表現自体が中国領土への侵略であることを如実に表現している。天皇が不拡大方針を貫徹しようとしているのにも関わらず。戦前戦中において統帥権を盾に政府に優越し、天皇を唯一至高の存在、現人神として崇め奉っていた軍部が、その内実は天皇の意思を尊重するどころか黙殺、あるいは歪曲した結果暴走して国家の崩壊を招いたことは、天皇の尊厳に対する卑劣極まりない侮辱であり、我が国史上最大の汚点として反省すべき点であることも、また忘れてはならない事実である。

ちょうどその頃、ジュネーブでは国際連盟の総会が開かれており、9月14日には中国が非常任理事国に選任されていた。このため、満州事変は常任理事国である日本と非常任理事国である中国との理事国同志の紛争となった。9月21日、施肇基代表は、連盟規約第11条により満州事変を正式に提訴し、理事会の開催を要請した。中国の要請に基く理事会は22日に開催され、施代表は日本軍が吉林、長春等の諸都市を占領していることを訴えた。これに対して芳沢謙吉日本代表は、満鉄や居留民保護のための占領であり、国際連盟の干渉は日中両当事者による解決の妨害になると訴える。アメリカは不拡大方針を表明している幣原外相を支持する方針であり、その態度を知っていた日本は国際連盟の干渉を極力排除する構えで強気に臨んでいく。
         
9月24日午前、南陸相が金谷参謀総長を参謀本部に訪ね、参謀本部の戦線拡大計画に対して逆に、関東軍の満鉄付属地引き揚げを求め、参謀総長もこれに同意するという大異変が発生する。帰国した建川第一部長や二宮参謀次長は、これに強く反発して、陸相と総長の説得を試みるが、両大将とも珍しく自説を譲ろうとしない。この背景には、22日に金谷参謀総長が叱責を受けたこと、23日に首相が不拡大方針の徹底を求められたこと、つまり天皇の意思が大きく影響をしていたと考えられる。今まで自分たち最高首脳が決めた合意を部下の実力者たちに無視されてきた最高首脳部が、天皇の強い意思に押されて逆襲したかたちである。午後4時40分、関東軍に対して満鉄付属地への引き揚げ命令が発せられた他、ハルピン出兵は関東軍の要請があっても実施しない旨が伝達された。これがこの通り実現されれば、不拡大方針は貫徹されていたことになる。 
9月25日、国際連盟理事会が開催された。議題は中国が提案した連盟からの日本軍撤兵監視オブザーバー派遣。
提案当初、イギリス代表のセシル伯爵はこの提案に賛成していた。一方、アメリカのスチムソン国務長官は、幣原外交支持の立場からこの案に難色を示していた。日本代表は強気に突っぱね続けており、この日の理事会が注目された。日本代表の内心の懸念にもかかわらず、セシル代表も当事国の問題として不介入方針を明言、中国や他の非常任理事国を驚かせた。背後に、24日のアメリカでの国務次官と駐米イギリス代理大使との会談でアメリカがイギリスの干渉政策を非難したことがあげられる。このまま日本が不拡大政策を貫徹し、撤兵ができれば国際問題化することは避けられる情勢であった。
                              
9月26日、満州事変の解決に関わる閣議が開かれた。
若槻首相は、満蒙新政権樹立に関与してはならない旨を南陸相に伝え、陸相もこれを了承する。幣原外相は関東軍が未だに吉林から撤退していない点を捉え、このままでは外交交渉上不得策であるとして、陸軍が撤退しないなら辞職するとまで宣言してみせた。南陸相は、もし外務省が満蒙問題の一挙解決を図るなら吉林撤退を考慮すると回答する。閣議後、南陸相は金谷参謀総長を訪ねて吉林撤退を同意させ、関東軍に対し吉林撤退命令を発させた。建川部長は絶対反対だったが、最高首脳部の権威はこの段階ではまだ生きている。国際協調外交が不拡大路線を貫徹できそうな情勢になってきていた。     
9月26日、外務省、陸軍省、拓務省の協議の結果として、南陸相から本庄司令官あてに電報が発信される。


「満州に新政府を樹立せんとする諸種の策動に邦人の関与することは帝国の立場をして甚だ不利なる状態に陥らしむる恐れ大にして事頗る重大なるが故にこの種の運動に関与することは厳に之を禁止す」

受け取った関東軍では、片倉大尉がこの電報を握りつぶしている。こういう電報を打たざるをえなかったということは、関東軍が9月22日の協議の結果として策動を開始していたこと、現に吉林でその動きがあることが影響している。もともと建川部長自身が中国主権下の親日満州政権(かつての張作霖政権)を主唱しており、満州を日本占領下におく板垣・石原両名を新政権案で説得したの以上、関東軍の主導による新政権樹立は、もはや規定路線であった。

日本の戦術的勝利であったこの事件は、後の歴史にどのように影響するか。
まず大陸では、これを境に満州を占領する関東軍と、現地の抗日運動との衝突が徐々に激化していった。
日本にとって重大だったのは、本国政府の不拡大方針が公然と無視されたことである。
結果陸軍は発言力を強め、日中戦争への軌道が確定した。
陸軍内では石原の思想に共鳴し、辻政信に代表される本国の決定を無視した若手参謀の独断専行が相次ぐようになり、やがてそれが軍・政府全体の空気を変え、対米開戦の世論をも醸成していく。

組織の欲望に際限はなく、そしてその最高意思決定の場においてはしばしば現実というものは存在せず、楽観主義がそれに取って代わる。
組織はともすればこのようにして、目的を見失うものである。

その典型的なモデルが、我々の祖国なのだ。



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