共産主義の幻想

平成19年7月 冬月

 

共産主義(コミュニズム)という言葉は、三つの相互に関連する現象を意味する。「理想」、「綱領」、そして「体制」である。
すなわち、はじめに思想があり、次に実現のための計画があり、そして最後に実行に至った。
思想を唱え計画を想定したのはマルクス・エンゲルスであったが、それの実行が初めて国家単位で試みられたソヴィエト連邦で実際に行われた事は、その過程も結果も最初の「理想」、「綱領」と大きく異なるものだった。

マルクスの想定では共産主義革命は、高度に工業化した西欧で社会の大多数を占めるに至ったプロレタリアートが自発的に起こすはずだった。
この想定は二つの意味で実現しなかった。

一つは共産主義革命が工業化した西欧でなく、工業化が遅れている農業社会のロシアで起こった事である。
マルクス主義にとっては土地を私有する農民は「プチ・ブルジョワ階級」であり、共産主義革命の担い手であるところの産業労働者の敵である。
しかし、一方で工業化が遅れていた帝政ロシアでは、それ故に西欧諸国には備わっている革命への抑止力が無かった。
長い間極端な政治支配の下にあった帝政ロシアでは、ツァーリが無制限の立法権、行政権、司法権を有して国を所有しており、西欧のように人々の内面に法や規範、道徳に関する意識の成熟が見られなかった。

ロシア人は財産権の概念にも乏しかった。
何故なら18世紀の終わりまで全ての土地はツァーリが所有しており、私有財産という概念やそれに関連する法律が無かったからである。
西欧では、中世から土地の大部分は私的に所有されていた。
ロシアのこうした土壌が、共産主義革命を生じる温床となった。
ロシアでは農民の多くが土地の不足からツァーリによる土地の再分配を求めるという無政府主義的な発想を持っていたし、財産権や自由などの諸価値を享受し共産主義革命に対して抵抗する中産階級も少なかった。
多くのロシアの人々には、自由を守ろうとする気概も法や財産に対する敬意も欠けていたのである。

第二に、ボリシェビキの権力掌握へと至るロシア革命は、マルクス主義が想定していたような自発的な労働者の革命などではなかった事を筆者は指摘している。
これは、長年にわたって信じられてきた民衆の蜂起による革命という一般的な通念を打ち破るものである。
実態としてのロシア革命は、一部のプロの革命家によって民衆の外からもたらされたものであり、そして革命の後に待っていたのはツァーリのそれよりはるかに過酷で多大な犠牲を伴う専制支配だった。

同様に、ソヴィエト連邦において初代の指導者レーニンは純粋な共産主義者だったが、スターリンの代になって抑圧的な体制になり当初の理想が歪められたという通念も誤りである。
レーニンは確かにスターリンに較べて「純粋」であったかもしれないが、その純粋さとは、彼が理想とする共産主義社会の実現のためなら手段を選ばないという類の純粋さであった。
実際には、スターリンはレーニンのお気に入りであり、レーニンの築いた理想のための独裁体制を引き継ぎ、それを幾分現実的なものに修正したのである。

このレーニンの理想に、共産主義が持つ重大な矛盾がある。
本書の最後に筆者が述べているように、共産主義社会の第一の目的である平等主義を強化するためには、特権を要求する強制的組織をつくることが必要となり、したがってこれは平等主義を無視する事になる。

民衆はボリシェビキの独裁という結果を支持したわけでも革命を担ったわけでもなかった。
レーニンは民衆に民主主義を約束し、ボリシェビキによる権力掌握をそのための手段であるかのように見せかけたので、民衆はそれを阻止しようとしなかっただけである。
ボリシェビキの独裁がそのまま続くとは誰も思っていなかった。
だが実際には、ボリシェビキはその後75年間権力の座から降りなかったのである。
このように、ロシア革命は民主主義のスローガンに狡猾にカモフラージュした小規模な少数派によって、ロシアに上から課されたもので、民衆によるものではなかったのだ。

ボリシェビキが自らを産業労働者階級の代表者であると標榜していた時点で、「多数派」を名乗る彼等は実はロシア国内では極めて少数派であった事は明白である。
ロシアの圧倒的多数は農民であり、ボリシェビキがいうところの産業労働者は全人口のわずか1.2パーセントしか占めていなかった。
しかも、それら労働者の中で、ボリシェビキの党員だったのはもっとわずかで、5.3パーセントしかいなかった。
つまり、ボリシェビキによる単独政権は、必然的に独裁政権となるしかなかったのである。しかもそれはプロレタリアートによる独裁ですらなく、プロレタリアートも含めた全ての階級に対する独裁である。
ボリシェビキは専制的かつ暴力的な支配を行い、その全体主義は全ての財産と権利を接収し、人々を抑圧するものとなった。

また、こうした革命家は、自らの力だけで平時に革命を成功させる事はできなかった。
レーニンはロシア臨時政府の内戦状態を利用して革命を成功させたし、その後もポーランド侵攻の失敗で彼が至った結論とは、他国の共産化には戦争による混乱を利用するのが最適であるという、いわば火事場泥棒的な発想だった。平時においては多数の支持も得られず達成できないところにも、共産主義の限界があったのかもしれない。

そして皮肉な事に資本主義経済の否定が、共産主義の矛盾と破綻につながっていった。
レーニンをはじめ革命家達は資本主義経済について極めて無知であり、全ての産業を国有化し、経済を国家が管理する事が可能だと考えた。
その結果体制内で起きたのは、官僚集団の肥大化と特権階級化である。

レーニンは、官僚とは利他主義的なものだと信じていたが、有史以来官僚とは自己の権益のために行動する性格をもっている。
加えて大規模産業から小規模産業、小売、卸売り取引、輸送やサービスなど、それまで民間で行われていたものも全て国家が管理する計画経済を施行するということは、それだけ巨大な組織と膨大な人員を必要とする事は当然である。
ロシアの工業生産力が革命前の水準の五分の一まで落ち込んでいた1921年の時点で25万人もいた官僚の数は、28年までには実に400万人に膨れ上がっていた。
彼等は革命初期の混乱と粛清の中で生活と安全のためにこの職につき、当然やがて自分達の集団利益を何よりも重んじるようになる。共産主義の大義はそこにはなかった。

スターリンは自らの権力基盤としてこの官僚集団を利用し、やがて官僚集団は一種の特権階級である「ノメンクラトゥーラ」なる制度をつくった。
様々な生活上の特権が与えられたこの階級は事実上の世襲制であり、それは帝政ロシア時代の貴族階級と実質的には何ら変わらないものになった。

結論として、共産主義の失敗は人間の過失によるものであったか、それとも共産主義の性質自体に本来備わる欠陥によるものだったのかについては、明白に後者だと述べる事ができる。

共産主義は、誤った方向へ進んだ善良な思想ではなかった。

思想自体が誤りだったのである。
その欠陥は、イタリアの独裁者ムッソリーニがレーニンを評した次の言葉に端的に象徴されている。


「レーニンは芸術家である。他の芸術家が大理石や金属を使って作品をつくるのと同じように、彼は人間を使って作品をつくったのだ。
しかし人間は花崗岩より硬く、鉄のような可鍛性がない。
傑作はひとつも生まれなかった。
この芸術家は失敗したのだ。
その仕事は、彼の力を超えるものであることが証明されたのである。」


共産主義は、人間不在の思想だった。
平等主義のための無期限の専制も、官僚主義の横行も、全てまず理想的なシステムをつくり、そこに人間を組み込もうとした。
人間の本質という改変が困難な要素を想定した思想ではなかったのである。

 


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