貞永式目の歴史的意義

 

冬月

 

武家法の発生原因を考察すると、そもそも律令制度の形骸化によって、朝廷において律令の解釈や慣行によって現実に即した修正的な公家法を運用し、神社仏閣・貴族などの荘園領主も、荘園における独自の法である本所法を形成していった事が挙げられる。
この二つの法圏の中から、在地領主としての武士階級が台頭し、やはり独自の法慣習を形成していくが、これが第三の法圏として独立するには鎌倉幕府の成立を待たなければならず、そしてその成文化がこれから述べる貞永式目である。

源頼朝は鎌倉幕府を発足させ、『武家の習い、民間の法』と呼ばれた武家社会の慣習法に基づいて裁定を行った。
これがいわゆる『右大将家例』である。
その後、承久の乱に勝利し、六波羅探題が尾張以西の西国における御家人に対する一定の裁判権を獲得したことで、幕府は国家機関としての組織を整える必要に迫られた。
これ以前には幕府は源頼朝の治世より、律令や公家法の制約を受けない武家独自の法秩序を構築してきており、それは平安末期以来の東国武士の間に生まれた自主的な法慣習を基礎とし、頼朝の独裁的権力によって、先に挙げた『右大将家例』として定着していた。
だが、こうしたいわば東国限定の棟梁と御家人の私的な主従関係の延長では、承久の乱以後の大規模化し複雑化した施政には間に合わず、新たな組織や制度の確立が必要になったのである。

1225年には政治・裁判を合議裁決するための11人の重臣による評定衆が発足する。
この機関は執権・連署からも独立しており、またその構成員もその独立による合議制の精神を守っていかなければならない。
そのためには、共通の規範が必要になった。

また承久の乱の後の訴訟の急増も挙げられる。
乱後に新たに配置された新補地頭は、戦勝の勢いに乗っていたるところで国衙の役人や荘園領主、荘官、農民と紛争を起こしており、同時に御家人同士の争いも多くなっていた。
しかもその裁判は、承久の乱以前と違って総て幕府と六波羅探題が行う必要があり、どうしても一定の基準を定める事が必要になってくる。
執権の北条泰時は彼の発議の下、法制度に詳しい知識を持った矢野倫重、佐藤業時、斉藤浄円、太田康連らを中心とした、評定衆の協議を経て1232年(貞永1年)に武家としては初めて、成文化された法典を編纂した。
これがいわゆる貞永式目、いわゆる御成敗式目である。

この貞永式目は成文化された法典といっても、わずか51条からなる簡素なものであり、従来の朝廷の律令と較べて内容の薄さは歴然としていた。
ちなみにこの51という数字は聖徳太子の17か条を三倍にしたとも伝えられており、式目のレジティマシー醸成に腐心した様子がうかがえる。
内容は承久の乱の後の新しい情勢に応じて従来の個々の法令や判決のうちから必要なものを選び修正を加えて具体化したものである。
具体的には、そのご追加と称する単行法令が多数発せられた。また重要なことでもここで挙げる必要がないと思われたものは必ずしも明記していない。
例えば、幕府の機関や役人の職分・地位・待遇などの規定がひとつもない。

北条泰時が当時六波羅探題であった弟の北条重時に送った二通の手紙が今日に残っており、そこから泰時がどのような思惑に基づいて、この式目を制定したかが垣間見える。
手紙の中で彼はまず式目は律令下の朝廷の法令とは別に定めたものであり、そのよりどころとしているのは『道理』だけで、それ以上の何かの権威によったものではないとしている。
といって法令を決して否定するものではないが、しかし法令を読めるものはごく少なく、そのために法令を知らないで罪を犯し処罰される者が多いなどと法令を批判し、その上で、この式目は法令と違って読みやすく、何より公平・公正に裁判するために定められたものであると強調している。

また泰時は、この式目への朝廷の非難を考慮した上で、この式目はあくまで御家人のためにだけ定めたもので、律令を改めるつもりは全く無いと否定している。

このように泰時は式目の独自性を主張しながらも、公家法や本所法を否定するものでは無いと述べている。

泰時の言う『道理』とは、東国武士の長い間の慣習や、それを重んじた頼朝の裁定、あるいは従者は主人に忠、子は親に孝、妻は夫に従う、そして所領の農民生活の安定をはかる、などといった当時の道義的諸価値であった。
これは主従関係や家族関係のみに関わる、ごく単純な狭い範囲の慣習・道徳であったが、それらは武士の生活から自然発生的に生じたものであり、それを初めて成文法として自覚したのがこの貞永式目であると考えることができる。

この式目は先述のように律令や公家法、本所法を否定する物ではないが、逆に言えば朝廷の武家政権およびその勢力圏での裁定、調停に対する法的な干渉も同時に否定しているといえ、武家法の自覚的独立を宣言したものとして評価できる。
また、基本法としてのこの式目は、御家人の所領をめぐる権利意識を背景として、日本独自に発生した『法の支配』の一体系として、我が国、いや世界の法制の歴史の中で画期的な出来事といえる。わずか51か条の法典ではあるが、律令のような外国からの模倣ではなく、武家が日々の生活の中で培った『道理』を成文化した、純粋に我が国独自の法典といえるからだ。
しかもこの式目は他国の文明にあるような専制君主が私的に規定したものではなく、政府である幕府の公の機関である執権・連署・評定衆が審議決定し発布した基本法であり、その実施は政所、問注所、侍所など幕府によって整備された司法機関に支えられていた。

また誰にでもわかりやすい規範をという泰時の希望通り、式目は手写によって広められ、はやくから庶民の読み書きの教材となり、江戸時代になっても寺子屋で教科書として用いられ、松尾芭蕉の俳句に登場するなど後世にまで我が国の司法・教育に多大な影響を与えた。
それは単にこの式目が法的手続きを定めたようなものでなく、『道理』という人間としての規範に訴える性質を持っていたからに他ならない。
日本の道徳的規範というと江戸時代に流行した儒教が一番に想起されるが、東国武士の生活から自然発生した『道理』に基づくこの式目もまた、日本人の精神的発展を考察する上で無視できない要素であるといえよう。



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