『近現代日本の政治と行政』

〜伊藤博文から現代までの駆け足日本政治史・・・皆様の近代日本史理解の一助として下されば光栄です〜

冬月真弘


 1882年、政府は伊藤博文らをヨーロッパに派遣し憲法調査にあたらせた。翌年帰国した伊藤らは、まず1884年に華族令を定め、将来の上院の土台を作った。ついで1885年、太政官制を廃して内閣制度を制定した。各省の長官は国務大臣として自省の任務に関して天皇に直接責任を負い、総理大臣のもとに閣議の一員として参画するものとなった。また宮内省は内閣の外におかれ、宮中の事務を統括することとなり、天皇の輔弼の任にあたる内大臣が宮中におかれた。地方制度の改正も山県有朋を中心に進められ、市制・町村制、府県制・群制が公布され、地方自治制が制度的に確立した。
 伊藤博文らによって憲法の草案ができると、枢密院で審議がかさねられ、1889年2月11日、大日本帝国憲法が発布された。帝国憲法は欽定憲法であり、天皇と行政府の権限がきわめて強いものであったが、法律の範囲内でさまざまな権利が認められていた。また司法権が行政権から独立していて、三権分立の体制が作られた。
 天皇は統治権の総覧者として、行政各部の官制を定め、文武官の任免を行い、国防方針の決定、宣戦・講和や条約の締結をおこなう権限、陸海軍の統帥権を持っていた。帝国議会は対等の権限を持つ貴族院と衆議院からなっいたので、衆議院の立法権の行使は、華族や直線議員からなる貴族院の存在によって実質的に制限されていた。1880年には刑法と治罪法が公布された。その後条約改正を進めるためもあり、1890年に民法、商法、民事・刑事訴訟法が公布された。       
1890年におこなわれた日本最初の衆議院議員総選挙では、旧民権派が大勝し、第1回帝国議会は立憲自由党や立憲改進党などの民党が過半数を占めた。これに対して政府側では、憲法発布直後に黒田清隆首相が政府の政策は政党の意向によって左右されてはならないという超然主義の立場を声明していた。続く第1次松方内閣では、経費節減・民力休養を主張する民党と衝突して衆議院を解散し、1832年の第2回総選挙に際して激しい選挙干渉をおこなって政府支持者の当選に努めたが、民党の優勢をくつがえすことはできなかった。
日清戦争と三国干渉は国内政治に大きな変化をもたらし、自由党は第2次伊藤内閣の軍備拡張予算を承認し、そのあとの第2時松方内閣も進歩党と提携して軍備を拡張した。しかし、第3次伊藤内閣が陸・海軍のさらなる軍備拡張要求により地租の増徴案を議会に提出すると、初期議会以来地租の軽減を要求してきた自由・進歩両党は、これに反対し合同して憲政党を結成した。衆議院に絶対多数を持つ政党の出現により伊藤内閣は退陣し、かわって我が国初めての政党内閣である第1次大隈内閣が成立した。
しかし、組閣直後から両党間に対立があり尾崎行雄がいわゆる共和演説事件で文部大臣を辞任し、わずか4ヵ月で退陣した。この後、政党の影響力が官僚におよぶのをふせぐために、1899年に文官任用令を改正し、翌年には政党の力が軍部におよぶのをはばむために軍部大臣現役武官制を定めた。さらに治安警察法を公布して、政治・労働運動の規制を強化した。
 このような一連の政策に批判的になった憲政党は解党し、1900年伊藤博文とともに立憲政友会を結成した。伊藤は第4次内閣を組織したが貴族院の反対で退陣することとなり、1901年第1次桂内閣が成立した。これ以後、桂太郎ひきいる官僚・貴族院勢力と西園寺公望を総裁とする政友会が政界を2分した。山県・伊藤らは政界の第一線を退き、非公式に天皇を補佐する元老として内閣の背後から影響力を行使した。
第2次西園寺内閣が成立した頃、日本の財政は非常に悪化していたが、1911年の中国での辛亥革命に刺激された陸軍は、治安維持もかねて朝鮮に駐屯させる2師団の増設を政府に強くせまった。政党に基礎を置く内閣と軍部が対立するなかで、憲法学者美濃部達吉が政党内閣を支持する憲法論を公刊し、世論は立憲政治の重要性に目覚めた。
 このようななか、1912(大正元)年2師団の増設が閣議で認められなかったことに抗議して、上原勇作陸相が辞表を天皇に提出したため、西園寺内閣は総辞職に追い込まれた。西園寺の後をうけ内大臣と侍従長を兼任していた桂太郎が第3次内閣を組織すると、宮中と政治の境界を乱すという非難の声が上がり、立憲国民党の犬養毅と立憲政友会の尾崎行雄を中心に「閥族打破・憲政擁護」をかかげた運動が全国に広がった。桂は立憲同志会を組織してこの運動に対抗しようとしたが、議会と世論の反対が強まる一方だったため、1913年50日あまりで退陣した。この後、薩摩出身の海軍大将山本権兵衛が内閣を組織し、行政整理を行い文官任用令を改正し、軍部大臣現役武官制を改めるなど、官僚・軍部に対する政党の影響力の拡大につとめたが、1914年ドイツのシーメンス社からの軍艦購入に関する汚職事件(シーメンス事件)がもとで退陣した。
1916年には政治の民主化を求める国民の声は次第に強まっていった。そのため寺内正毅が純然たる超然内閣を組織したが、前内閣の与党各派が合同で憲政会を結成してこれに対抗すると、寺内首相は翌年衆議院を解散した。
このようななか、1918年シベリア出兵にからむ米の買占めにより米価が急騰すると、富山県の漁村の女性の行動をきっかけに、米屋などをおそう米騒動が全国に広がった。政府がその鎮圧に軍隊を出動させたため、内閣批判の声が高まり寺内内閣は総辞職した。
こうして元老も政党内閣を認めることなり、1918年、衆議院の第一党である立憲政友会の総裁原敬を首相とする内閣が成立した。華族でも藩閥出身者でもなく衆議院に議席を持つ原首相は平民宰相とよばれ、国民各層に歓迎された。しかし、原内閣は普通選挙や社会政策の実施には冷淡で、選挙法を改正して納税資格を引き下げたにとどまった。
大戦後の国際政治の主導権はアメリカが握ったが、社会主義国ソヴィエトも独自の外交を展開した。こうした情勢の中で、1921年アメリカは海軍の軍備縮小と太平洋および極東問題を審議するための国際会議を招集した。アメリカの目的は、軍縮協定により米・英・日の建艦競走を終わらせ自国の財政負担を軽減させると同時に、東アジアにおける日本の膨張を抑制することにあった。日本は加藤友三郎らを全権とする代表団を会議に派遣した。会議では、太平洋諸島に関するアメリカ・イギリス・フランス・日本の四カ国条約が締結され、これによって日英同盟の破棄が同意された。
 翌1922年にはこの4カ国にイタリア・中国など5カ国を加えた九カ国条約が結ばれ、中国の領土と主権の尊重、中国における各国の経済上の機会均等などが約束された。さらに同年、米・英・仏・伊・日の5大国の間で海軍軍縮条約が結ばれ、米英各5、日本3、仏伊各1.67の主力艦保有比率が定められた。国内では海軍、特に軍令部で米英7割が主張されたが、海軍大臣で全権の加藤友三郎が海軍内の不満をおさえて調印にふみきった。また1922年に日本と中国の間で交渉が行なわれ、山東半島の旧ドイツ権益を中国へ返還する条約が結ばれた。
 この一連の国際協定は、世界平和と太平洋・東アジア地域における列国間の協調をめざしたもので、この新しい国際秩序はワシントン体制と呼ばれた。立憲政友会の高橋是清内閣は、これを積極的に受け入れ協調外交の基礎を作った。国内では一部に反対の声があったが、続く加藤内閣と山本内閣も協調外交をひきつぎ、1924年に加藤高明内閣が成立すると幣原喜重郎外相のもとに幣原外交と呼ばれる協調外交を進めていった。
1924年、貴族院の勢力を背景に清浦圭吾が内閣を組織すると、憲政会・立憲政友会・革新倶楽部の3党は、超然内閣の出現に反対し、憲政擁護運動を起こした(第二次護憲運動。政府は議会を解散して総選挙に望んだが、結果は護憲三派の圧勝に終わり、清浦内閣は総辞職した。かわって衆議院第一党の憲政会総裁の加藤高明が3党の連立内閣を組織した。加藤内閣は協調外交を基本とし、1925年にいわゆる普通選挙法を成立させた。これにより満25歳以上の男子は衆議院議員の選挙権を持つこととなり、有権者数は4倍に増えた。しかし、同時に治安維持法を成立させ、「国体」の変革や私有財産制の否認を目的とする結社の組織者と参加者を処罰することを定めた。
 1925年に護憲三派の提携は壊れ、加藤内閣は単独内閣となった。1926(昭和元)年憲政会の総裁をついだ若槻礼次郎が内閣を組織した。1927年に若槻内閣が台湾銀行救済問題で退陣すると、政友会総裁の田中義一が後継内閣を組織し、野党となった憲政会は政友本党と合同して立憲民政党を結成した。これ以後1932年に犬養内閣がたおれるまで、政友会と民政党の総裁が交互に内閣を担当する二大政党時代が続いた(憲政の常道)。
第一次世界大戦の終結によってヨーロッパ諸国の復興が進み、ヨーロッパの商品がアジア市場に再登場してくると、大戦以来の好景気とはうってかわって、日本経済は苦境にたたされることとなった。1919年から貿易は輸入超過に転じ、1920年には株式市場の暴落を口火に戦後恐慌が発生し、綿糸・生糸の相場は半値以上に暴落した。さらに1923年の関東大震災で経済は大きな打撃を受け、銀行手持ちの手形が決済不能となり日本銀行の融資で一時をしのぐなど、そののちも不況が続いた。
 その後1927年、この震災手形の処理がはかられたが、一部の銀行の不良な経営状態があばかれ、取付け騒ぎが起こり銀行の休業が続出した。ときの若槻礼次郎内閣は、大戦中に急成長した鈴木商店に対する巨額の不良債権をかかえた台湾銀行を緊急勅令によって救済しようとしたが、枢密院の了承が得られず総辞職した。その後に成立した立憲政友会の田中義一内閣はモラトリアム(支払猶予令)を発し、日本銀行から巨額の救済融資を行い、全国的に広がった金融恐慌をようやくしずめた。
幣原外交を批判してきた立憲政友会も1927年に政権につくと、欧米諸国との協調を維持し、同年にジュネーヴで開かれた日・英・米の3国が補助艦の制限のための海軍軍縮会議に参加した。翌1928年には軍閥の張作霖を守ろうとして、日本人居留地の保護もかねてパリで不戦条約に調印した。しかし、中国政策で親日的な満州、1927〜28年に3次にわたる山東出兵を行い、強硬外交に転じた。また1927年には、中国関係の外交官・軍人などをあつめて東方会議をひらき、中国の日本権益を実力で守ることを決めた。1928年の第2次山東出兵では中国国民革命軍との間に武力衝突がおこり、日本軍は済南城を占領した。さらに関東軍の一部は張作霖を奉天郊外で爆殺して、満州占領をこころみた。当時事件の真相は国民に知らされず、満州某重大事件とよばれた。
1920年代の再三の恐慌に対して、政府は日本銀行券の増発による救済政策をとってきた。しかし、それは経済の破綻を一時的に防止しただけで、過大に膨張した経済界の再編は進まず、貿易の輸入超過は増大し、1917年以来の金輸出禁止が続き、外国為替相場は動揺と下落をくりかえした。
そのため、財界からも金本位制に復帰した欧米にならって金輸出解禁を実施し、経済界を抜本的に整理することを望む声が高まってきた。1929年に成立した浜口雄幸内閣は、蔵相に井上準之助を起用し、財政を緊縮して物価の引下げをはかり、産業の合理化を促進して国際競争力の強化をめざした。1930年1月には金輸出解禁を断行して、外国為替相場の安定と経済界の整備とをはかった。
しかし、前年10月にアメリカではじまった恐慌は、世界恐慌に発展していたため、日本経済は解禁による不況とあわせて二重の打撃を受けることとなり、深刻な恐慌状態におちいった。輸出が大きく減少し、正貨は大量に海外に流出し、企業の倒産があいつぎ、賃金引下げ・人員整理が行なわれ、失業者が増大した。
浜口内閣は外相にふたたび幣原喜重を起用し、協調外交を復活した。1930年のイギリスの提案で、ワシントン会議で除外された補助艦の制限を行うためロンドン海軍軍縮会議がひらかれた。総トン数の対英・対米7割は認められたが、大型巡洋艦の対米7割などの要求はうけいれられないまま、政府は調印を命じた。これに対し海軍軍令部や右翼・立憲政友会などは、兵力量を政府が決定したのは統帥権の干犯であると激しく政府を攻撃した。政府はこれをおしきって枢密院での条約の批准に成功したが、経済政策の失敗もあって、浜口首相は反発する右翼の一青年に狙撃されて重傷を負い、翌1931年死亡した。
1928年末、中国では不平等条約撤廃・権益回収を要求する民族運動が高まり、国民政府は公式に満州における日本の権益回収の意向を表明するに至った。1931年4月に成立した第2次若槻内閣の外交交渉では満蒙問題の解決は進まず、陸軍とりわけ関東軍(かんとうぐん)は危機感を深め、武力によって満州を日本の勢力下におこうと計画した。かねてから「世界最終戦論を展開した関東軍参謀石原莞爾らは、1931年9月18日奉天郊外の柳条湖で南満州鉄道を爆破し、これを中国軍の仕業として軍事行動を開始し、満州事変がはじまった。
 関東軍は内閣の不拡大方針を無視して占領地を拡大し、世論・マスコミも軍の行動を支持したので、若槻内閣は閣内不一致も重なって総辞職した。かわって同年12月立憲政友会総裁犬養毅が組閣した。翌1932年になると、軍はほぼ満州の主要地域を占領し、3月には清朝最後の宣統帝溥儀を執政として満州国の建国を宣言させた。1931年には三月事件・十月事件がおこり、翌年の2〜3月には井上日召の率いる右翼の血盟団員が井上準之助前蔵相・団琢磨三井財閥幹部を暗殺し、5月15日には海軍青年将校の一団が犬養首相を射殺するという事件(五・一五事件)があいついだ。
五・一五事件の後、元老西園寺公望は穏健派の斎藤実海軍大将を首相として推薦し、ここに大正以来8年で政党内閣は崩壊し、太平洋戦争終了後まで復活しなかった。斎藤内閣が成立すると、9月に日満議定書をとりかわして満州国を承認した。しかし国際連盟はリットン調査団の報告に基づき、満州国における中国の主権を認め、日本の占領下を不当として日本軍の撤兵などを求める勧告案を1933年2月に臨時総会に提出した。これが採択されると松岡洋右ら日本全権は退場し、3月には正式に国際連盟からの脱退を通告した。また1936年にはロンドン軍縮会議を脱退してワシントン・ロンドン両海軍条約が失効した。こうして日本は国際的に孤立するに至った。
1931年12月、高橋是清を蔵相として成立した犬養内閣は、ただちに金輸出再禁止を行い、続いて円の兌換を停止したので、日本経済は管理通貨制度の時代に入った。産業合理化を進めていた諸産業は、円為替相場の下落を利用して飛躍的に輸出を伸ばし、とくに綿織物の輸出拡大はめざましく、イギリスに代わって世界第1位の規模にまで達した。
軍事費を中心とする財政膨張と輸出の躍進とによって産業界は活気づき、日本経済は1933年頃には世界恐慌以前の生産水準を回復した。特に重化学工業の発展がめざましく、工業生産額のうち、金属・機械・化学工業が1933年には繊維工業をうわまわり、1938年には全体の過半を占めた。鉄鋼業では国策会社日本製鉄会社がうまれ、鋼材の自給が達成された。自動車工業や化学工業では、日産・日窒などの新興財閥が台頭し、満州・朝鮮などにも進出した。このころの世界の情勢は大きく揺れ動き、列強は世界恐慌からの脱出をはかり苦しんでいた。特にイギリスはブロック経済圏をつくり、その植民地への日本製品の進出に対しては、ソーシャル=ダンピングと非難し、輸入割当や高率の関税で対抗したので日本の輸出は抑制された。
政治における政党の力は次第に小さくなり、軍部と反既成政党・現状打破・革新を主張する勢力とが政治的発言を増大させていった。1934年には、穏健派の海軍大将の岡田啓介内閣が成立したが、この年陸軍省が発行したパンフレット「国防の本義と其強化の提唱」は陸軍の政治・経済への関与の意向を示すものとして論議をまきおこした。
1935年には、貴族院で一議員が美濃部達吉のいわゆる天皇機関説は反国体的であると非難したのをきっかけとして、大きな政治問題となった。軍・右翼は天皇は統治権の主体であるとして、美濃部学説およびそれにもとづく現体制を厳しく攻撃した。岡田内閣はついに屈服して国体明徴声明をだし、美濃部学説を否認した。
政治的発言権をました陸軍内の派閥対立もからんで、1936年2月26日、北一輝の思想的影響を受けていた皇道派の一部陸軍青年将校が、約1400名の兵を率いて首相官邸・警視庁などをおそい、高橋是清蔵相・斎藤実内大臣・渡辺錠太郎陸軍教育総監らを殺害するに至った(二・二六事件)。国家改造・軍政府樹立をめざすこのクーデターは失敗し鎮圧されたが、戒厳令のもとで岡田内閣にかわった広田弘毅内閣は、閣僚の人選や軍備拡張や国内政治改革などの政策について軍の要求を受け入れてかろうじて成立し、以後の諸内閣に対する軍の介入の端緒をつくった。
この後国内改革の不徹底を不満とする軍と軍拡による国際収支の悪化など内閣の政策を不満とする政党双方の反発で、広田内閣は1937年1月総辞職した。組閣の大命が陸軍の穏健派宇垣一成にくだったが、軍部は陸相を推挙せず宇垣内閣はついに不成立に終わった。この事件は軍の政治的発言力の大きさをはっきりと示した。結局林銑十郎内閣が成立したがこれも短命に終わり、同年6月国民の期待を集めた近衛文麿が内閣を組織した。
1936年、広田内閣は防共を旗印として日独防共協定を結び、翌年イタリアもこれに参加し、日・独・伊3国間に枢軸関係が成立した(。この年イタリアも国際連盟を脱退し、ここに日本・ドイツ・イタリアの枢軸陣営とイギリス・アメリカ・フランスの自由主義陣営、および共産主義国のソ連という3つの勢力の対立が次第に表面化していった。
1933年5月満州事変は終わったが、その後も軍部は華北への進出の機会をうかがい、1936年広田内閣は華北5省を日本の勢力下におく方針を決定した。これに対し中国では抗日救国運動が高まり、同年12月の西安事件をきっかけに国民政府も抗日の意思を示した。
こうしたなかで1937年7月7日、近衛文麿内閣の成立直後に北京郊外の盧溝橋で日中両国軍の衝突事件が発生した。現地で停戦協定は成立したが、戦線は北から南へと次第に中国各地に広がっていった。これに対して国民政府も徹底抗戦のため、共産党と第2次国共合を行って抗日民族統一戦線が成立した。こうして宣戦布告のないまま日中戦争に発展した。日本は次々と大軍を投入し、首都南京を占領したが、国民政府軍は抗戦を続けたので和平の試みも効果がなく長期戦の様相を呈していった。
そこで近衛首相は1938年1月、さらに同年末と声明を発し、1940年にはそれまで各地に樹立していた傀儡政権を統合し、南京に新国民政府を樹立させた。しかし日本の軍事力を背景とするこの政権によって戦争を終結させるという日本の政略は失敗に帰した。準戦時体制の長期化にともなって、自由主義的思想の弾圧は厳しくなり、内閣の強化、政治勢力の一元化、全国民の協力体制の確立などに必要が主張されるようになってきた。そして国民精神総動員運動が展開され、産業報国会の結成、産業組合の拡充などによる農民の再組織、それら国民諸組織を動員する体制が計画され、1938年には近衛を党首とする新党結成がこころみられた。
広田内閣の大軍備拡張予算をきっかけにして、軍事支出は急速に膨張し、軍需物資の輸入の急増は国際収支の危機を招いた。そこで政府は臨時資金調整法・輸出入品等臨時措置法などによって、資金と貿易の面から直接経済統制にふみきった。財政の膨張はあいつぐ増税をもたらしたが、膨大な歳出をまかなうことはできず、多額の赤字公債が発行され、日本銀行券の増発によるインフレーションが進行した。戦争の長期化が予想されるなかで、1938年には国家総動員法が制定され、政府は議会の承認なしに経済と国民生活の全体にわたって統制する権限を得た。軍需産業では輸入資材や資金が集中的に割りあてられ、また1939年国民徴用令によって、一般国民が軍需産業に動員されるようになった。「不急不要」の民需品の生産や輸入は厳しく制限され、中小企業強制的整理が進められた。政府は1939年の価格等統制令で経済統制を強化し、国民に対しては「ぜいたくは敵だ」というスローガンのもとに生活の切りつめを強要した。国内向けの綿製品の生産・販売が禁止され、1940年にはさとう・マッチ・木炭などの切符制がしかれ、翌年には米が配給制となるなど日用品の統制が著しく強まった。
日本の必要とする軍需産業用の資材は、日本・満州・中国占領地の「円ブロック」の中だけではとうてい足りず、欧米などからの輸入に頼っていたが、国際対立にともなって貿易は縮小しはじめ資材の入手が極めて困難になった。そこで日本は資材を求めて「大東亜共栄圏」の名のもとに南方進出を企てたが、列強の対日経済封鎖を強める結果を招いた。
ヨーロッパでは、ナチス=ドイツが積極的にヴェルサイユ体制の打破にのりだし、1938年オーストリアを併合し、チェコスロヴァキアの併合にも手をのばした。このようななかドイツは、防共協定の仮想敵国をソ連のほか、イギリス・フランスにも拡大した軍事同盟に強化するよう日本に提案した。翌1939年、近衛内閣にかわって成立した平沼騏一郎内閣は、同年8月にドイツが突如ソ連と不可侵条約を結んだため、変動する国際情勢に対応し得ないとして総辞職した。9月にドイツがポーランドに宣戦を布告すると、イギリス・フランスもただちにドイツに宣戦を布告して、第二次世界大戦が開始された。平沼内閣に続く阿部信行・米内光政の両内閣は、ドイツとの軍事同盟に消極的でヨーロッパの戦争に不介入の方針をとり続けた。しかし翌1940年にはいって、ドイツがヨーロッパ各地を征服し、6月パリを占領すると陸軍を中心に、対米英戦を覚悟してもドイツと結んで南方に進出しようという空気が急速に高まった。
1940年6月近衛文麿が枢密院議長の職を辞して、強力な指導政党を中心とする新しい政治体制をめざす「革新」運動、新体制運動の先頭に立つことを声明すると、政党や各団体は積極的にあるいはやむをえず解散して参加を表明した。7月第二次近衛内閣が成立したが組閣に先立つ近衛と陸・海・外相予定者との会談で、欧州大戦不介入の方針転換、ドイツ・イタリア・ソ連との提携強化、南方への積極的進出の方針が定まった。9月近衛内閣は蘭印と物資取得の交渉をはじめる一方、南方進出の足がかりとして北部仏印進駐を開始し、ほぼ同時に日独伊三国同盟を締結した。一方新体制運動は、1940年10月に大政翼賛会として結実した。
1941年4月第2次近衛内閣は悪化しつつあったアメリカとの関係を調整するため、日米交渉を開始した。日米民間人同士の接触から1941年には非公式会談が続けられ、同年4月には野村吉三郎駐米大使とハル国務長官との正式の話し合いとなった。前年の日独伊三国同盟締結に続き、この年の4月に日ソ中立条約を結び、こうした力を背景にアメリカを屈服させようとしていた松岡洋右外相は、必ずしもこの日米交渉に積極的ではなかったが近衛と軍部はこれを推進した。
 西ヨーロッパを制圧していたドイツは、同年一月突如独ソ不可侵条約を破棄して独ソ戦を開始した。これに対応するため開かれた御前会議は、軍部の強い主張によって対米英戦を覚悟のうえの南方進出と情勢有利の場合のソ連攻撃を決定した。同時に第2次近衛内閣は日米交渉の継続をはかり、対米強硬論をとる松岡外相を除くため、いったん総辞職した。しかし第3次近衛内閣が組織された直後、すでに決定されていた南部仏印進駐が実行に移され、それに対してアメリカは対日石油禁輸の措置をとり両国の関係は険悪の度を増し、アメリカは日本に経済制裁を加えることで対外進出を抑止しようとした。それに対し軍部は危機感をつのらせ、「ABCD包囲陣」による圧迫をはねかえすには戦争に訴える以外に道はないと主張した。1941年9月6日の御前会議は10月上旬までに対米交渉がまとまらない場合の対米開戦を決定した。日米交渉は満州を除く中国からの日本軍の全面撤退、三国同盟の事実上の死文化を要求するアメリカとそれに反対する日本との間に妥協をみいだせないまま10月上旬をむかえた。そして日米交渉の継続を希望する近衛首相と、交渉打ち切り・開戦を主張する東条英機陸相とが衝突し、近衛内閣は総辞職した。木戸幸一内大臣は9月6日の御前会議の決定を白紙還元することを条件として東条英機を総理に推挙し東条内閣が成立した。東条内閣は9月6日の決定を再検討したが結論は同じであった。開戦を避けられぬとみたアメリカも戦争を決意し、11月末には満州事変以前の状態への復帰を要求したので、交渉は絶望的となった。12月8日日本はマレー半島に上陸し、ハワイの真珠湾を奇襲攻撃することともにアメリカ・イギリスに宣戦を布告し、第二次世界大戦の一部としての太平洋戦争が開始された。
日本の宣戦とともにドイツ・イタリアも三国同盟によってアメリカに宣戦し、戦争は全世界に拡大した。日本軍は先制攻撃によりハワイでアメリカ太平洋艦隊の主力を、そしてマレー沖でイギリス東洋艦隊の主力を全滅させ、香港・マニラ・シンガポールをおとしいれ、ついで南太平洋の広大な地域をおさえて軍政をしいた。日本はこの戦いの目標は欧米列強の支配からアジアを解放し「大東亜共栄圏」を建設することであるとした。このような情勢のなかで、1942年4月東条内閣は翼賛選挙を実施した。その結果、政府の強力な援助を受けた推薦候補が絶対多数を獲得し、当選議員のほとんどをふくむ唯一の政治結社として翼賛政治会が結成されたが、議会はごく少数の反対派をのぞき政府つまり軍部の提案に賛成する機関となった。しかし1942年6月のミッドウェー海戦の大敗北を転機として、戦局はしだいに不利に転じ、この年の後半からはアメリカの本格的反攻が開始された。一方東条内閣は、東南アジア地域の欧米植民地を独立させ、1943年にはその政府の代表者を東京に集めて大東亜会議をひらき、アジアの欧米植民地からの脱却をうたった。しかし1944年にはサイパン島が陥落し、東条内閣が倒れて小磯国昭と米内光政の連立内閣が成立した。
アメリカ軍は1944年10月フィリピンに上陸、翌1945年2月硫黄島、4月沖縄本島に上陸した。日本の敗北が必至となったこの段階で、小磯内閣が退陣して戦争終結の任務を期待された鈴木貫太郎内閣が成立した。ヨーロッパの戦線でも、1943年から連合軍が反攻に転じ、まずイタリアが降伏し、ついで1945年5月日本がたよりにしていたドイツも無条件降伏し日本は孤立した。軍部は本土決戦を決めていたが、鈴木内閣はソ連を仲介とする和平工作を進めようとした。しかし、すでに2月クリミア半島のヤルタでアメリカ・イギリス・ソ連の3国は首脳会談(ヤルタ会談)を開き、ソ連の対日参戦を密約していた。3国は7月にはベルリン郊外でポツダム会談を行い、その機会にアメリカは対日政策をイギリスに提案し中国を加えて3国の名で日本の敗戦処理方法と日本軍隊の無条件降伏を勧告するポツダム宣言を発表した。日本政府が対応に苦しんでいる間に、アメリカは8月6日に広島についで9日に長崎に原子爆弾を投下した。また8月8日、ソ連はまだ有効期限内にあった日ソ中立条約を無視して宣戦布告をし、満州・朝鮮に侵入した。政府と軍首脳部は御前会議で昭和天皇の裁断によりポツダム宣言の受諾を決定し、政府は14日これを連合国側に通告した。8月15日、天皇のラジオ放送で戦闘は停止され、9月2日東京湾内のアメリカ軍艦ミズーリ号上で日本政府および軍代表が降伏文書に署名して、4年にわたった太平洋戦争は終了した。
日本はポツダム宣言にもとづいて連合国に占領されることになった。アメリカ軍は1945年8月末から日本本土進駐をはじめ、9月2日には降伏文書の調印が行われた。連合国は日本本土には直接軍政をしかず、マッカーサー元帥を最高司令官とする連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の指令・勧告にもとづいて日本政府が政治を行う、間接統治の方法をとった。連合国の占領政策決定の最高機関としては極東委員会が、また最高司令官の諮問機関としては対日理事会がもうけられたが、占領軍はほとんどアメリカ軍からなり、アメリカ主導で占領政策が進められた。
 降伏とともに鈴木貫太郎は総辞職し、皇族で元軍人の東久邇宮稔彦が組閣したが、「一億総懺悔」「国体護持」をとなえるなど、GHQの政策に適応できず10月に総辞職した。かわって幣原喜重郎が首相に就任し、GHQは新首相に、婦人の解放、労働組合の結成、教育の自由主義化、圧政的諸制度の撤廃、経済の民主化という五大改革指令を発した。
陸・海軍の将兵約600万人の武装解除・復員も進み、日本の軍隊は急速に解体され消滅した。戦犯容疑者は9月から12月にかけて逮捕され、1946年5月から極東国際軍事裁判所で裁判が開始された。共産党員をはじめ政治犯は釈放され、特別高等警察や治安維持法も廃止され、思想・信仰・政治活動の自由が保障された。
 1946年1月に昭和天皇はいわゆる人間宣言を行って、「現御神」としての天皇の神格をみずから否定した。また同年1月の公職追放令によって、政・財・官界から言論界にいたる各界の指導者21万人が戦時の責任を問われ職を追われた。
GHQは日本経済の後進性を象徴する財閥・規制地主制が軍国主義の温床になったとみて、それらの解体を経済民主化の中心的課題とした。1945年11月、まず三井・三菱・住友・安田など15財閥の資産の凍結・解体が命じられ、翌年には持株会社整理委員会が発足し、指定された株式会社・財閥家族の所有する株式などの譲渡をうけて、これを一般に売り出し、いわゆる株式の民主化を進めていった。さらに1947年にはいわゆる独占禁止法によって、持株会社やカルテル・トラストなどが禁止され、過度経済力集中排除法によって巨大独占企業の分割が行われることになった。
 1946年、政府は農地調整法改正による第一次農地改革案を自主的に決定したが、GHQからさらに徹底せよとの勧告を受けて、翌年から自作農創設特別措置法による第二次農地改革を開始し、1950年にほぼ完了した。
労働政策も積極的に推進され、1945年12月には労働組合法が制定され、労働者の団結権・団体交渉権・ストライキ権が保障された。さらに翌年に労働関係調整法、1947には労働基準法が制定され、労働省が設置された。労働組合はつぎつぎと結成され、1946(昭和21)年には全国組織として右派の日本労働組合総同盟、左派の善意本産業別労働組合会議が結成された。
教育制度の改革も民主化の重要な柱の一つで、アメリカ教育使節団の勧告により、1947年教育の機会均等や男女共学の原則をうたった教育基本法が制定され、気味教育が6年から9年に延長された。同時に制定された学校教育法により、4月から六・三・三・四の新学制が発足した。また1948年、都道府県・市町村に、公選による教育委員会がもうけられた。
GHQは軍部の独走をゆるした非民主的な政治構造の改革をめざし、憲法改正を幣原内閣に指示した。しかし、政府が憲法問題調査委員会に作成された改正案は、天皇の統治権を基本的に認めるなどGHQの要求をとうてい満たすものではなかった。このため1946年2月GHQはみずから作成した改正案を政府に提示し、政府はこれに手を加えたものを政府原案として発表した。改正案は帝国議会の審議を経て可決され、日本国憲法として同年11月3日に公布、翌年5月3日から施行された。
 新憲法は大日本帝国憲法と比べて、内容を一新した画期的なものであった。主権在民・平和主義・基本的人権の尊重の3原則を明らかにし、国民が直接選挙する国会を「国権の最高機関」とするいっぽう、天皇は政治的機能を持たない「日本国民の統合の象徴」となった。国会は衆議院・参議院の二院からなり、議院内閣制となった。また第9条では戦争放棄をかかげ、国際紛争解決の手段として武力を行使せず、そのための戦力は保持しないと定めたことは世界にも例がない。
 新憲法の精神にもとづいて多くの法律の制定あるいは大幅な改正が行われた。1947年に改正された民法は家中心の戸主制度を廃止し、男女同権の新しい家族制度を定めた。刑事訴訟法は人権尊重を主眼に全面改正され、刑法の一部改正で不敬罪・姦通罪などが廃止された。また47年には地方自治法が成立して、都道府県知事が公選となった。     敗戦直後から各政党があいついで復活・誕生した。1945年10月、日本共産党が合法政党として活動を開始し、つづいて旧無産政党を統合した日本社会党、旧政友会系の日本自由党、旧民政党系の日本進歩党、協同組合の育成・労使協調をかかげる日本協同党などが結成された。12月には選挙資格を20歳に引き下げ、婦人参政権を認めた新選挙法が制定された。
 翌1946年4月に戦後初の衆議院議員総選挙が行われ、39名の女性代議士が誕生し、日本自由党が第一党となった。同年5月、親英米派の吉田茂が、公職追放をうけた鳩山一郎にかわって日本自由党総裁になり、進歩党の協力を得て第一次吉田内閣を組織した。こうして政党政治は復活したが、敗戦後の社会の混乱は政局の安定を許さなかった。極度の物不足に加えて、終戦処理などで通貨が増発されたため猛烈なインフレーションが発生した。1946年2月、幣原内閣は預金を封鎖して旧円の流通を禁止し、新円の引き出しを制限することによって貨幣流通量を減らそうとしたが、効果は一時的であった。そこで政府は経済安定本部を設置して、1947年には資材と資金を石炭・鉄鋼などの重要産業部門に集中する傾斜生産方式を採用し、復興金融金庫の融資と補給金の交付とを重点的に行ういっぽう、賃金を抑える政策をとった。これによって生産の上昇がはじまったが、赤字財政による巨額の資金の投入はインフレをますます進行させた。国民生活の危機は大衆運動を高揚させた。ストライキが頻発するなかで全官公庁共同闘争委員会に結集した官公庁労働者を中心に、1947年2月1日を期してゼネラル・トラストが決定されたが、突入前日にGHQの指令で中止された。新憲法下のあたらしい政府を構成するために1947年4月には衆参両議院の選挙が行われ、労働運動・農民運動の高揚を背景に日本社会党が第一党となり、民主党・国民協同党との連立による片山哲内閣が生まれた。しかし、この内閣は連立のため積極的な社会主義政策を実施に移せず、党内左派の攻撃にあって1年足らずで倒れた。1948年3月、民主党の芦田均が同じ3党連立の内閣を組織して中道政治を進めたが、疑獄事件でこれも短期間で倒れた。
1948年1月にアメリカのロイヤル陸軍長官が日本を共産主義に対する防壁にせよとの演説を行って以後、占領政策の転換が具体化した。日本の諸外国に対する賠償は軽減され、過度経済力集中排除法にもとづく企業分割は緩和された。
占領政策の転換と同時に日本の政治にも転換が生じ、1948年10月、芦田均内閣が倒れると、民主自由党単独の第2次吉田内閣が成立し、翌年1月の総選挙で民主自由党は絶対多数の議席を獲得した。
 GHQは日本経済の復興に向けて次々と強硬な措置をとった。1948年12月には、第2次吉田内閣に対して、予算の均衡、徴税の強化、賃金の安定、物価の統制など経済安定九原則の実行を指令した。翌49年銀行家のドッジが特別公使として日本に派遣され、一連の施策を指示した。まず、まったく赤字をゆるさない予算を編成させ、財政支出を大幅に削減した。また、1ドル=360円の単一為替レートを設定し、日本経済はドル経済圏と強く結びつけられ、国際競争のなかで輸出振興をはかることとなった。ドッジ=ラインによってインフレは収束して物価は安定したが、不況が深刻化して中小企業の倒産が増大した。これに行政や企業の人員整理が重なって、失業者があふれるようになった。
朝鮮戦争が始まると日本は米軍の補給基地となり、米軍が朝鮮に移動した後の軍事的空白を埋めるために、GHQの指令で警察予備隊が新設された。この後、GHQの指示により日本共産党幹部が公職追放され、官公庁をはじめ多くの職場から共産党員やその同調者が追放された(レッド=パージ)。朝鮮戦争の勃発は日本の戦略的価値をさらに増大させ、アメリカは日本を西側陣営に正式に編入するため講和による日本の独立を急いだ。日本では講和はソ連・中国を含む全交戦国との全面講和でなくてはならないとする声もあったが、第3次吉田内閣は再軍備の負担を避けて経済復興を実現することを最優先課題とし、西側諸国との講和を行って、基地提供の見返りに独立後の安全保障をアメリカに依存することとした。1951年9月、サンフランシスコで講和会議がひらかれ、わが国とアメリカを中心とする48カ国との間にサンフランシスコ平和条約が調印された。翌年4月条約が発効して7年におよんだ占領は終結し、日本は独立国家としての主権を回復した。この条約は交戦国に対する日本の賠償責任をいちじるしく軽減したが、領土については厳しい限定を加え、朝鮮の独立、台湾・南樺太・千島列島などの放棄が定められ、沖縄・小笠原諸島はアメリカの施政権下に置かれた。平和条約の調印と同じ日、日米安全保障条約が調印され、独立後も日本国内に米軍が「極東の平和と安全」のために駐留を続け、日本の防衛に「寄与」することとされた。この条約にもとづいて、翌1952年2月には日米行政協定が結ばれ、日本は米軍に基地を提供し、駐留軍経費を分担することとなった。
ドッジ=ラインの強行で深刻な不況に落ち込んでいた日本経済は、朝鮮戦争で息をふきかえした。米軍の膨大な特殊需要(特需)やこれに国際的な軍需景気による輸出増加も加わり、繊維・金属を中心に特需景気がおこり、鉱工業生産は1950年代はじめには戦前の水準に回復した。1951年以降、政府は基礎産業に国家資金を積極的に投入し、電力・造船・鉄鋼などの産業部門は活発に設備投資を進めていった。1952年には、日本は国際通貨基金・世界銀行に加盟した。そして1955年からは「神武景気」とよばれる大型景気をむかえ、日本経済は急速に成長しはじめた。
 戦後、絶対量が不足していた食糧は占領地域救済基金などによる緊急の輸入によって確保されていたが、1955年以後、米の大豊作が続いて食糧需給は好転した。こうした情勢を受けて1956年の『経済白書』は「もはや戦後ではない」と記した。第3次吉田内閣は、アメリカの強い再軍備要求に対してしだいに譲歩を重ね、警察予備隊はサンフランシスコ平和条約発効とともに、1952年に保安隊に改組され、海上警備隊も新設された。さらに1954年、日米相互防衛援助協定により、アメリカの軍事・経済援助を受けるとともに自衛力強化の義務を負い、同年7月新設の防衛庁のもと、陸海空の3部よりなる自衛隊を発足させた。また政府は1952年5月の「血のメーデー」事件をきっかけに破壊活動防止法を制定し、公安調査庁を設置して、暴力的な政治活動を取り締まることとした。また、1954年には自治体警察を廃止し、警察庁指揮下の都道府県警察からなる国家警察に一本化して、警察の中央集権化をはかった。
サンフランシスコ平和条約の発効は、政治勢力の再編成を引き起こした。戦犯服役者の釈放と公職追放の解除によって、有力政治家が政界に復帰し、吉田首相に反発する勢力が増大した。1954年、反吉田勢力は鳩山一郎を総裁として日本民主党を結成し、同年末吉田内閣はついに退陣し、鳩山内閣が成立した。鳩山内閣は防衛力増強を推進するために国防会議を発足させ、憲法改正を唱えて憲法調査会を設置した。他方では「自主外交」をうたい、日ソ交渉を進め、第3次鳩山内閣の1956年10月には首相自らモスクワを訪れ、日ソ共同宣言に調印して国交を正常化した。その結果、従来日本の国連加盟を拒否していたソ連が支持にまわったので、同年12月には日本の国連加盟が実現した。一方社会党は、1951年平和・安保両条約に反対する左派と平和条約には賛成の右派とに分裂していたが、特に左派を中心にしだいに議席数を伸ばし、政界は保守と革新の2大勢力対立の構図が明瞭になった。1955年2月の総選挙で社会党は、左右両派あわせて改憲阻止に必要な3分の1の議席を確保し、同年10月には両派の統一を実現した。
保守陣営でも財界の強い要望を背景に、同年11月民主党と自由党が合流して自由民主党が結成され(保守合同)、総裁には鳩山一郎が選出された。ここに2大政党制が形成されたが、自社両党の議席数はほぼ2対1のままで推移し、保守一党優位の政治体制(55年体制)は、以後40年近く続くこととなった。
鳩山内閣のあとをついだ石橋湛山内閣は、首相の病気で短命に終わり、1957年に成立した岸信介内閣は、革新勢力と厳しく対決する一方、安保条約を改定して日米関係をより対等にすることをめざした。そのため、防衛力整備計画をスタートさせて防衛力増強をアピールしつつ交渉を進め、1960年1月には、日米相互協力及び安全保障条約に調印した。新条約では在日米軍の日本及び「極東」での軍事行動に関する事前協議が定められたほか、アメリカの日本防衛義務が明文化された。革新勢力は、新条約は日本が戦争に巻き込まれる危険を深めるとして反対運動を組織した。政府・与党が、1960年5月警官隊を導入した衆議院で条約批准の採決を強行すると、反対運動は「民主主義の擁護」を叫んでいっきょに高揚した。安保改定阻止国民会議を指導部とする社共両党・総評などの革新勢力や、全学連の学生、一般の市民からなる巨大なデモ隊は、連日国会をとりまいた。
岸内閣にかわった池田勇人内閣は、革新勢力と真正面からの対立を避けながら、「所得倍増」をスローガンに経済成長を促進する政策をとった。海岸線の埋め立てによる工業用地造成や道路・港湾建設が進み、最新鋭の製鉄所や巨大な石油化学コンビナートなどがつぎつぎと建設された。また、日中間の貿易は1952年の第1次貿易協定以来、民間貿易としてほそぼそと断続的に行われていたが、池田内閣は「政経分離」の方針の下に中華人民共和国との貿易拡大をはかり、1962年には準政府間貿易の取り決めが行われた。
1964年11月に成立した佐藤栄作内閣は、経済成長の順調な持続にもささえられて7年半以上におよぶ長期政権となった。佐藤内閣は、核兵器を「持たず、作らず、持ち込ませず」という非核三原則を明確にして外交交渉を進め、まず1968年に小笠原諸島の返還を実現し、ついで翌69年日米首脳会談で沖縄返還の合意を取り付けた。1972年ついに沖縄の日本復帰は実現したが、広大な米軍基地は存続することとなった。
1972年、佐藤首相の引退を受けて田中角栄内閣が成立すると、田中首相自らが訪中して日中共同声明を発し、国交正常化を実現した。また、田中首相は太平洋ベルト地帯に集中した産業を全国の地方都市に分散させて、それらを新幹線と高速道路で結ぶという「列島改造」政策を打ち出した。これに刺激されて生じた土地投機に、石油ショックによる原油価格の暴騰が加わって、激しいインフレが発生した(狂乱物価)。1974年には経済成長率は戦後初めてマイナスとなり、翌年以降も2〜5%の水準にとどまった。ついに日本経済の高度成長は終わったのである。
 田中首相の政治資金調達をめぐる疑惑(金脈問題)が明るみにでて、1974年末には田中内閣は総辞職し、三木武夫内閣が成立した。三木首相は「クリーン政治」をとなえたが、1976年、米ロッキード社の航空機売込みをめぐる収賄容疑で田中元首相が逮捕され、同年の総選挙で自由民主党が結党以来はじめて公認候補者の当選者で過半数を割り込み、福田赳夫内閣に交代した。福田内閣は内需拡大をかかげて、貿易黒字問題・円高不況に対処し、1978年には日中平和友好条約を締結したが、福田首相が自民党総裁選挙に敗れて大平正芳内閣に交代した。大平内閣は第2次石油ショックに対処し、財政再建を目指したが、1980年衆参同日選挙のさなかに大平首相が急死し、鈴木善幸内閣に交代した。
 1982年に登場した中曽根康弘内閣は、日米韓関係の緊密化と防衛費の増額をはかる一方、行財政改革・税制改革・教育改革を推進し、1985年から電電公社(現、NTT)・専売公社(現、JT)・国鉄(現、JR)の民営化を実現した。しかし、財政再建のための大型間接税の導入には失敗し、1987年政権を退いた。大型間接税は続く竹下登内閣のもとで、消費税として実現し、1989(平成元)年度から実施された。
冷戦の終結後まもなく、55年体制も崩壊した。1989(平成元)年昭和天皇がなくなり元号が平成と改められたころから、保守長期政権下での金権政治の実態が明らかにされていった。同年、竹下内閣はリクルート事件の疑惑の中で退陣し、これを継いだ宇野宗佑内閣も参議院議員選挙での大敗北で短命に終わった。海部俊樹内閣は激動する国際関係、とりわけ湾岸戦争への対応に苦しみ、1991年成立した宮沢喜一内閣は、翌年PKO協力法(国際平和協力法)を成立された。しかし、同内閣のもとで1992年佐川急便事件、翌年にはゼネコン汚職事件が明るみに出て、国民の激しい非難を浴びた。こうしたなかで、政界でも選挙制度改革や政界再編成を目指す動きが強まった。
 1993年に自由民主党が分裂して、7月の総選挙で自由民主党は過半数割れの大敗となった。宮沢内閣は退陣して、共産党を除く非自民8党派の連立政権が、日本新党の細川護煕を首相として誕生した。自由民主党長期政権は38年目に終わりを告げ、55年体制は崩壊した。細川内閣は「政治改革」を唱え、1994年小選挙区制を基本とする選挙制度改革を実現した。これを継いだ羽田孜内閣が短命に終わると、従来対立関係にあった自社両党に新党さきがけを加えた連立で、社会党の村山富一委員長を首相とする政権が成立した。1996年村山内閣は退陣し、同じ連立で自由民主党総裁の橋本龍太郎内閣が成立した。橋本内閣は後に『橋本行革』と呼ばれる一大行政改革に着手し、巨大省庁機関の合理化を計ったが、国民の信任を得られず退陣する。
他方1994年野党側は共産党を除いて合同し、新進党を結成して対抗したが、離合集散が繰り返され、1996年には民主党が、98年には自由党が発足した。1998年には自民党単独の小渕恵三内閣が成立し、自由党、公明党などとの連立などによる基盤強化をはかった。
小渕総理の急死、国民の不人気で短命に終わった森内閣を経て、現在の小泉政権に至る。




BACK