将たる所以

―智将ハルバートンから考察する、将であるための三つの要素―

平成17年7月 冬月


 ジャパニメーションがビジネスとしても脚光を浴びるようになった今日、ひときわ全世界の熱い注目を集めてやまない物語がある。1979年のTV初登場以来、ロボットアニメの金字塔として燦然と輝き続ける、『機動戦士ガンダム』シリーズである。

それまでの勇者ロボットが主流だったロボットアニメに兵器としてのロボットという概念を取り入れ、軍事的リアリズムという新風を巻き起こした『ガンダム』は、その後バンダイとサンライズの展開した巧みな商業戦略によって世代を超えて爆発的に人気を拡げ、その巨大な市場は今なお日本経済を潤し続けている。
この名誉ある『ガンダム』の称号を今日冠する正統な後継者SEED、その続編SEED DESTINYは、昔懐かしいファーストガンダムの世界観を踏襲することで従来の伝統的なガンダムファンの支持を確保しつつ、現代風の価値観を随所に取り入れることで若者や子供へのファン層の拡大に成功し、その圧倒的かつ継続的な人気は他の新作ロボットアニメの追従を許さない。

 さて、これほどまでに高い人気を誇るガンダムSEEDの数多の登場人物を、今回私はその言葉もしくは行いから、同じ男子として尊敬に値するキャラクターを探すことをテーマにしたいと思う。


 キラ・ヤマト、アスラン・ザラ、シン・アスカ・・・SEEDの男キャラと聞いて真っ先に頭に浮かぶ彼等、年齢も近く思春期の若者相応の悩みを抱いたたくましくも儚い若きエースパイロット達の群像は、多くの若い視聴者にとって感情移入のしやすい身近な存在であり、そんな彼等が天才的な能力を発揮してガンダムを操り華麗に戦場を駆ける様は、確かに憧れの対象になってしかるべきであろう。

しかし、ではこの愛すべき英雄達が果たして『尊敬』に値するかと訊ねられれば、私は否と答えざるを得ない。

そもそも尊敬とは自分に比して精神的に卓越したものを持つ、あるいはそういった行為を可能とする人間に対してすることであって、もしそれを思春期の客層に親近感を覚えさせるべく設定されたキャラクターに対してするのであれば、自分はそれより遙かに精神的に劣るということへの無言の肯定となる。

例えばかつての『08小隊』に登場したジオン公国軍のノリス・パッカード大佐は小説版で、あなたは敵を殺したことがあるかというアイナ・サハリンの問いにあると答えた上で、
「しかし後悔はありません。敵も武人、こちらも武人。互いの運と技量が生死を分けます」
と語ったとされているが、このような深みがあって感銘を受ける言葉、そしてその言葉を裏付ける行いを、私はあの純粋無垢な少年達から見聞きしたことは無い。
本来エースパイロットとは幾多の戦場を経験し、覚悟を持って生死の境をくぐりぬけてきた結果を伴った姿であるはずで、それが精神的にかくも未熟であることは現実にはありえないのであるが、SEEDの世界においては文字通り『種割れ』というフィクションが、未熟な戦場の覇者を量産している。遺伝子改良によって高度に進化した新人類コーディネイターという本作品最大のテーマの一つだった設定も、今や単に少年少女を戦場で活躍させる口実に成り下がってしまっている感がある。


 しかし主人公クラスがこのような案配であるから、兵士から将に目を転じてもこのアニメに見るべきものは無いと思ってしまうのは浅慮である。先ほどの話を振り返るに主人公が憧れの対象となり得るのはガンダムという強力な兵器に乗っての華々しい活躍があるからで、いかに脳内で種が弾けようとガンダムを降りれば彼等はただの人間である。ならばこの世界にはどこかにこのガンダムという革新的な兵器の必要性に着目し開発させた優秀な人物がいるはずで、もしもその人物が劇中で描かれているのであれば、そこに光を当てるのが正当といえよう。

そしてSEEDにおいてその人物とは、ストライクガンダム等のXナンバー及び強襲機動特装鑑アークエンジェルの開発計画を推進した立役者でありマリュー・ラミアス大尉が敬愛する上官、ハルバートン准将である。


 昨今横暴な某超大国のパロディなのか、大西洋連邦を機軸とする地球連合軍はとかく作中で悪役扱いされることが多く、高級指揮官の中で主要キャラから敬愛されていた人物は、それ自体が極めて稀有であるが、私は今回さらに一歩踏み込んで、彼の将としての魅力を考察することにした。
簡単に紹介をしておくとハルバートン准将はPHASE−12『フレイの選択』及びPHASE−13『宇宙に降る星』に登場し、地球連合軍第8艦隊提督として、アークエンジェルの護衛・アラスカ降下支援作戦を指揮中に、これを阻止しようとするザフト軍クルーゼ隊の襲撃を受け、第8艦隊旗艦メネラオスと共に戦死している。
これだけを聞くとたった二話で死んだやられ役にしか思えないし、実際ほとんどのSEEDファンがその認識だろうが、それでも敢えて私がここで彼を尊敬に足る将だというのは、何もラウ・ル・クルーゼが彼を智将として認めていたからだけではない。ハルバートンの少ない言動の記録から、彼が真に将と呼ばれるに相応しい人間が兼ね備えていなければならない三つの要素を持っていることがわかるからである。


 まず、将と兵を分ける第一の要素は真に敵を知り、己を知っているか否かだろう。敵を知り、己を知れば百戦危うからずという諺があるが、戦っている敵に対して偏見をもったり、感情的に憎んだり、己の力を過信するようなことは、士気を高めるために一般兵士には必要であっても、兵を束ねて上に立つ将は同じであってはならない。敵の強さを正当に評価し、同時に己の弱さから目を背けない、懐の広さ、客観的で柔軟性のある思考が求められるのだ。この場合の『敵を知る』とは、何も敵の戦力や技術といった戦うための情報だけではない。敵の良所、敵の魅力、敵の信念までをも知識としてだけではなく心から理解すること、そしてそれらを全て飲み込んだ上で、なお寸分の情け容赦も無く冷徹に敵と戦える強靭な精神力を指す。これが実践できなければ、他の点でどれだけ優秀でも真に偉大な将とはなれない。

かわぐちかいじ原作のアニメ『ジパング』に登場する米海兵第一師団長ヴァンデクリフト少将は、これからガダルカナル島に上陸して日本軍と戦うのに日本兵のことをまるで知らず、化け物か何かだと思っている米兵達に、日本兵について次のように訓示している。
「彼等は普通の人間だ。彼等も我々と同じように祖国を愛し家族を愛している。だから彼等には最大の敬意を払い、細心の注意をもって、皆殺しにしろ」

これは戦争の本質を突きつけ、それを認識させた上で個々の意志の力で踏み越えさせようとする、自嘲混じりのユニークな激励だが、部下達に一定以上の能力があると信ずるのなら、敵を知って戦う者の強さは、知らずに戦う者を圧倒するということを、彼は知っていたのだろう。敵を悪の権化だと思い込み思考停止した者の強さは戦術的には便利でも、そのような狭量な人物が戦略を任された軍隊は、往々にして不幸な結末を辿る。典型的なモデルは、第二次大戦時の我々の祖国だ。

ハルバートンはザフトが運用する新兵器モビルスーツの優れた性能を早くから認め、対して旧態依然とした戦艦やMA主体の大艦巨砲主義からいつまでも脱却できない連合軍の将来に強い危機意識をもっていた。ザフトが新しいモビルスーツを次々と戦線に投入してくる一方、アラスカの連合軍上層部は軍需産業と癒着して役に立たない利権がらみの兵器を量産し続けるだけで、ザフトを軽視してモビルスーツ開発の有用性を認めすらせず、前線の兵の犠牲を鑑みることもない。SEED DESTINYの時代になってさえ連合軍には未だにモビルスーツの兵器としての価値を認めようとしない将官がいたことも考えると、ハルバートンの主張無しではXナンバー開発計画の実現、ガンダムの誕生はありえなかっただろう。歴史上にも、真珠湾奇襲作戦を立案したのが、米ハーバード大学に留学経験があり米国かぶれと海軍内部で批判されていた山本五十六であったという例が存在する。

キラ・ヤマトとアークエンジェル艦内で会話をした際ハルバートンは、君の両親は君にどんな夢を託してコーディネイターにしたのだろうと訊ねてキラを驚かせた。他の連合軍軍人の多くが抱いているナチュラルのコーディネイターに対しての劣等感からくる屈折した嫌悪感や差別意識は、そこには微塵も感じられない。コーディネイターの優秀さに目を背けるのではなく、純粋に心から讃えることをもためらわないのがハルバートンの強さなのだ。


 第二の要素は、個々の戦況に関わらず一貫した、確固たる信念を持っていることである。
作中オーブの民間人でありながらストライクガンダムで驚異的な戦果を上げたキラ・ヤマトの処遇について議論になった時、例え本人に戦う意志が無くてもキラの両親を連合軍が『保護』という形で人質にとればキラを強制的に戦わせられると提案したバジルール少尉に対して、ハルバートンはそんな兵が何の役に立つか、と一喝する。キラの能力を知っている者からすれば、一見この判断は非合理的で、先に指摘した彼の柔軟性や現場主義に矛盾するかに思えるが、これについて私は「確かに君の力は魅力だが、君一人がいれば勝てるほど戦争は甘くは無い」とキラに語ったハルバートンの言葉こそが、その答えだと思う。思えばキラ・ヤマトをコーディネイターでもなければエースパイロットでもなく、等身大の一人の兵士として公正に扱ったのは、彼が最初で最後ではあるまいか。

キラの力は個々の戦局を左右できても、大局を動かすことはできない。大局を左右するのは幾万もの無名の兵士であり、彼等の信ずるものを守り、その意志を尊ばねば、軍隊は規律を失い、自壊してしまう。目の前の戦果に目がくらんで策を弄し平然と非道を行う人間を、兵達は果たして偉大な将として敬愛し、命を捧げたいと思うだろうか。真に将と呼ばれる者は、優れた軍人であると同時に、揺るぎ無い信念を持った哲学者であることが求められるのである。


 そして最後に、第三に将に求められるのは、後に残す人を育てることのできる人物であることだろう。

どんな偉大な思想をもった人間でも、それが人間という生身の存在である以上自分自身の死という制約から逃れることはできないし、自分自身ではやれることにも限りがある。それでも一個の人間という制約から溢れ出す力を持つのが将なのであって、その力を使い切るためには、己の志を受け継いでくれる人材を育てなければならない。さすれば肉体は滅びても、その精神は生き続ける。この点でのハルバートンの精神は、その部下のマリュー・ラミアスに見ることができる。ハルバートンは死んだが、平和な時代を築こうとした彼の理想は、今もマリュー・ラミアスの心の中に生きているはずだ。優れた部下を持っていることは、時として本人が優れている以上にその人物の器の大きさの証明となる。

「やって見せ 言って聞かせて させて見せ 褒めてやらねば 人は動かじ」
これは帝国海軍百年の計を立てるに際して、将兵を問わず人材育成を軍事の最重要課題と信じ続けた山本五十六が好んで用いた言葉である。

人を育てることとはすなわち、未来を紡ぐことに他ならない。その上でハルバートンと対極にある、コーディネイターの排斥を主張するブルーコスモスの思想は、どちらかが完全に滅びるまで終わらせることができない非生産的な争いを助長する。連合軍内部にあってブルーコスモスに批判的だったリベラル派の重鎮ハルバートンの死がブルーコスモスを台頭させ、その後の歴史を歪めていくことになるのは、ザフト側にとっては皮肉な話である。


 私がこれを書いている平成17年7月現在放送されているガンダムSEED DESTINYでは、あのガンダムSEEDから2年後の世界が描かれている。
先の大戦である者は親を失い、ある者は子を殺され、その復讐のために迷いなく戦いに身を投じて殺戮を繰り広げ、そしてかつて自らが受けたのと同じ苦しみと憎しみを他者に与えていることに気付かない。戦争という巨大な歯車がもたらす負の連鎖の中で、人々が唱える『正義』は実に空虚なものに感じられる。

正義を否定するストーリーは今の時代を反映しているのだろうが、誰もが自分が正義だと信ずるもののために憎み合い殺し合う悲劇をこれでもかと繰り返し見せ付けられ、普遍的な正義など存在しないと言いたげな描写を見るにつけ、私は逆に忘れられがちな正義という言葉の本当の意味を問い直したい欲求に駆られる。
死んだ家族の写真をコックピットに貼り付けユニウスセブンを落とそうとするテロリストや、恋人を殺されて以降日を追って非情さを増している主人公・・・彼等が戦う理由としているものは確かに彼等の『事情』として認めることはできるかもしれないが、果たして『正義』と呼ぶに相応しいものなのだろうか?私はこれら過去に捕われた負の感情の発露に同情することはあっても、その正当化に共感するべきではないと考える。

過去を向いて行われる戦いは、さらなる戦い以外の何も後に残さない。世界にとって共通に認められる正義があるとすれば、それは未来を建設し、希望を生産するためのものであるはずだ。


 この混沌とした乱世にもしハルバートンが生き延びていたとしたら、彼はその先の時代にどんな未来を描こうとしただろうか。


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