経済活動と社会生活

冬月


経済は本当に人を豊かにするか。
いや、豊かさとは何か。
これは、近年頻繁に問われている疑問である。
戦後、焦土と化した国土を僅か数十年で建て直し、「経済大国」と呼ばれるにまで至ったこの国の戦後復興、高度経済成長は驚嘆に値するべきものである。
事実、その当時のアメリカを始めとする他国ではそのような歴史上稀に見る大成功を収めた日本という国の研究が花盛りであった。
バブル崩壊後のここ十数年は不況だ不況だとはいうが、それでもフィリピン、インドネシア、ラオスなどといった発展途上国などからすれば我々は未だに大金持ちなのである。
それは一人当たりの国民所得、エネルギー消費量、耐久消費財の普及度といった経済的「豊かさ」の指標を見ても明らかである。我々は経済的に豊かであることは確かだ。しかし「幸福か」と問われればそうとは限らないのである。
 何故「幸福」ではないのか?それは社会不安が大きいからではないか。
現代日本の社会不安といえば過労死、自殺者の増加、治安の悪化、モラルの低下、不登校、ひきこもり、NEETの増加など枚挙に暇が無い。
私は、この様な事態になっている大きな原因の一つに経済活動ばかりを社会活動として偏重し、その他の社会活動を軽視してきたことが挙げられるのではないかと思っている。
社会というのは、人々の様々な社会活動の結果成り立っているといって差し支えない。社会活動は経済、政治、軍事、教育、宗教などの分野に分けられると思うが、これらは全てその社会に所属する人々を幸福にするために行われる活動であるべきである。
人は幸福になる事を至上目的として生きているのだと私は思う。社会活動というのはその一環として営まれ、社会全体が「幸福」になれば個人の「幸福」もより大きく達成されるからこそ社会活動は重要なのである。まず経済活動に言及して言えば、経済とは「経世済民」即ち、「世を経て人民を(苦しみから)救済する」事のはずである。よって経済活動とは、社会全体を金銭的に「裕福」にすることによって人々を「幸福」にすることが目的のはずの社会活動である。その為に一人一人が真面目に一生懸命働くことが求められるのであって、己の幸福を犠牲にして働くことが求められているはずが無いのである。しかし、現実は大きく異なる。リストラへの恐怖からか、度を過ぎた長時間労働による過労死は未だになくならない。このような事が多く起きる殺伐とした社会が「豊か」であるはずも無いのではなかろうか?少なくとも私はむしろ心の「貧しさ」を感じる。
 戦後の日本は経済的に豊かになることを至上目的とし、アメリカのような「豊かな」大量消費社会を目標としてきた。テレビや映画に映し出されるアメリカの風景を見て、人々は食器洗い機、洗濯機、車などを所有することに対する憧れを掻き立てられてきた。そのような生活を夢見て経済的豊かさを追求してきた。その試みは半ば成功したといえるだろうがその反面、精神的には非常に貧しくなったのではないかと私は思う。先ほど私が例として挙げた社会不安の中に、自殺者の増加、モラルの低下、不登校、ひきこもり、NEETの増加というのがあったが、これらは全て精神面の衰微、貧困で説明できると私は考えている。例えば自殺者の増加についてだが、この国は物質的、経済的に非常に豊かであるから何の仕事もなく、一銭の収入も無くても生きていくことは可能なのである。生活保護を受けることも可能だし、衣類や食べ物に関してもゴミ捨て場から拾ってきたり、賞味期限切れ直後のものを探してきたり譲ってもらえば金はかからない。生きていくだけならこれほど簡単な国も無いだろうと思う。しかし人々の多くはそれをしないで自殺する道を選ぶ。何故だろうか?その気力が無いのである。「そこまでして生きていたくない」というのが彼らの本音ではなかろうか?これは精神面の教育という話を最近まで無視してきた日本の教育や宗教に問題があると私は思っている。但し、教育に関しては学校教育のみならず家庭でのしつけ、世論、若年層に対する年配者の対応なども含めてのことである。豪胆な精神はどうしたら養われるのか、どうしたら人々は「強く」社会生活を送れるのか、といった問いは非常に難問である。しかし向き合わなくてはならない命題であったはずだ。それを十分にしてこなかった日本社会に今そのツケがまわってきている。
 日本は経済的には豊かになったが精神的には貧しくなった。
経済はこの国にとって様々な点で重要であるが、その経済至上主義が引き起こした多くの弊害を解決することも、我々は考えなければならない。

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