経済社会の政治的基盤

冬月


 現代社会において工業化といえば、資本主義の下で推進、達成されるものであるというのが常識である。
工業化といわれて歴史を振り返ってみると、産業革命が第一に挙がってくる。周知のとおり、産業革命とは新たな生産技術や機械の導入によって旧来の生産様式、すなわち道具に基づく手工業的技術を用いて工業生産を行う初期資本主義から産業資本主義へと移行した世界史上、非常に重要な出来事である。これにより人々の生活は以前の伝統的生活から大きく変わった。そして産業革命といえば、それを世界で最初に発生させたイギリスであろう。以降は主にイギリスの歴史を見て産業革命の社会的影響についていくつか見ていこうと思う。
 イギリスにおける産業革命の原因は、重商主義体制を支える初期資本のもとで生じた内外のいきづまりであり、それを促進し、解決できなかった重商主義体制のいきづまりであった。18世紀の農業革命による農業生産力の上昇などによる人口の増加や社会的分業の進展、輸送手段の改善が国内市場の拡大をもたらした。また諸外国と比較して多くの商船を有する海洋国家であったイギリスは、広大な国外市場を開拓することに成功しそれに伴って輸出が増大した。
このような内外の市場拡大につれて国内での販売や輸出が増え、それらは重商主義政策によって促進された。その結果、初期資本において資本蓄積が進展し、さらに生産力を増大させようとするとそれに合わせて労働力需要が増大し、これが供給を上回れば当然労働力が不足し、賃金が上昇するのである。これに対し、政府は囲い込みなどの政策によって労働力の確保を図るがそれも限界に突き当たる。この高賃金による高価格の為、イギリス製品はヨーロッパ市場で後進諸国の低賃金による低価格の商品によって排除されるようになる。こうしてイギリスは、輸出市場を自国の植民地市場に転換せざるを得なくなる。ところがアメリカ北・中部植民地では本国の工場と競争する工業が発達し始め、それらの工業を抑圧する政策を強化せざるを得なくなり、その結果アメリカ植民地は独立するに到った。
このように国内外のいきづまりを重商主義政策は促進するばかりで解決できないのである。労働者の賃金が上昇しても、より安い製品を生産し、利潤を獲得し、増大させる為には、労働生産力を上昇させる、様々な労働を節約する機械を発明導入することが必要であり、それを実現させたのは広大な内外市場の存在や初期資本のもとで蓄積された資本、豊富な労働力である。
イギリスの産業革命はマンチェスター周辺の綿工業における技術革新から始まった。1733年の飛びひの発明から、ジェニー紡績機、水力紡績機、ミュール紡績機などが相次いで発明され、機械化が促進された。この様に、産業革命初期は軽工業が中心であった。しかし、社会に対してより影響力の大きかったのは、重工業や交通革命であった。
 18世紀初頭、ダービーによってコークス製鉄法が開発され、その鉄を生産する工業燃料として木炭に変わり大量生産可能な石炭が採用された。結果、鉄の生産量が増え、鉄製の機械が普及していった。これらの鉄や石炭の運搬の為、交通手段も次々と改善された。当初は有料道路や運河が利用された。特にマンチェスター周辺の運河は石炭の運搬に大いに力を発揮した。後にスティーブンソンが試作した蒸気機関車は急速に全国に普及した。19世紀後半には鉄道はイギリスの非常に重要な輸出品となり、世界中のいたるところにイギリス製の鉄道が敷かれることとなった。国内外を問わず、鉄道は都市の発達を促した。
産業革命とは即ち都市化である。産業革命は、イギリスの多くの都市を劇的に発展させた。マンチェスター、バーミンガム、グラスゴーの様な工業都市、リヴァプールの様な港町などが代表的である。人々は都市に集まり、都市人口の比率が急激に高まり生活様式も一変した。その結果、失業や貧困、伝染病など多くの社会問題が発生してきた。都市人口が急速に増えたために、生活環境は著しく悪化した。その上、彼らは低賃金、長時間労働に加えて栄養状態も悪かったので結核、梅毒、天然痘などの伝染病が絶えなかった。特にコレラの流行は凄まじかった。
 この様な状況に対して、労働者は団結して労働条件の改善を求めはじめたが政府はこれを弾圧した。機械化によって職を失った職人たちは機械打ちこわし(ラダイト)運動を展開したが、1810年をピークに衰えた。また、工場労働は時間給が普通であり、機械時計の刻む時間によって時間を厳守することが求められた。しかし当時の人々はこの様な習慣に慣れていなかったので、労働時間の問題は経営者との間で深刻な問題となった。これに対して、依然として人手を必要とする産業の職人たちはその発言権を増すこととなり、後の、労働者の参政権を要求したチャーティスト運動において中心的な役割を担った。
さて、18世紀の産業革命以後、工業化を行った社会体制として、世界には大きく分けて二つの経済社会体制が存在している。即ち、資本主義と社会主義でる。
1991年のソ連崩壊までは、資本主義において自由主義経済、他方社会主義においては計画経済が推進され、それぞれが工業化を目指していた。しかし、社会主義的工業化は挫折し、ソ連は崩壊した。ソ連と双璧を成していたもう一つの巨大社会主義国家、中華人民共和国もまた、社会主義市場経済などと称しているものの、結局は資本主義化を行っており社会主義的計画経済は世界から姿を消しつつある。何故このような結果になったのか?社会主義的計画経済の挫折をとおして、その理由を探っていきたいと思う。
1930年代にソ連で成立した社会主義計画経済制度は、極度の中央集権を特徴とするものであった。農業の個人副業(自留地)経営とコルホーズ商業(自由市場)を除いて、社会的生産物の生産,流通,分配を集権的な中央計画でカバーし、市場的な要素が極端に排除ないし抑圧されているのがその基本的な性格をなしていた。こうした型の社会主義経済制度ができ上がった理由としては、次の三つが考えられる。第1は、マルクスおよびマルクス以後のマルクス主義が社会主義経済を一種の非市場的経済とみなし、資本主義対社会主義という体制次元の問題と市場対計画という機能システム次元の問題とを同一視してきたことである。生産手段を社会化したならば、社会全体を〈ひとつの工場〉のように運営できるだろうというイメージはマルクスに発している。第2は、十月革命からわずか8ヵ月後,1918年6月から21年3月まで,国内戦と外国干渉戦という非常事態のもとで施行された〈戦時共産主義〉の経験である。これは農民にたいする余剰食糧徴発制を中心に、労働の軍隊化と厳しい配給制による雇用、消費規制を結合した戦時統制型の経済で、市場関係はほとんど表面から姿を消したが,これが革命の熱狂と第1であげた社会主義経済像と結びついて,真の社会主義への道と考えられた。社会主義経済制度の最初のモデルが非市場型の中央集権経済として成立したという事実はその後の社会主義の経済思想に大きな刻印を残し、1921年春からのネップ(NEP=新経済政策)による混合経済への移行にもかかわらず、清算されなかった。第3に決定的であったのは、1928年の第1次五ヵ年計画の開始とともに始まった工業化計画が資源の集中的配分を必要としたという事情である。これは後進国のたんなる工業化計画ではなく、世界資本主義の包囲下で孤立した社会主義国がもっぱら自国の資源に依拠しつつおよそ10年という短期間に重工業・国防優先の工業化を達成する、という死活の要請によるものであった。ここから必要とされる極端に傾斜した資源配分は、市場機構によっては達成できず逆にその排除を必要とする。ソ連型の集権的な計画経済制度がつくりだされたのは、行政的資源配分を可能にする〈装置〉としてであって、それが一方では意思決定の高度集中と行政的指令方式、他方では市場機構の極度の排除という特徴を帯びたとしても少しも不思議なことではない。
以上のように見てくると、ソ連における社会主義的計画経済は社会全体の経済的な豊かさを確保する為、資本家対労働者という階級闘争の構図から脱却してより平等な社会を作るという理想よりもむしろ、世界において孤立していた自国を守る為の必死の行動の結果、生み出されてきたものであったことが分かる。その為、必然的に社会主義の理想、理念といったものよりも早急な発展が極度に重視され、その結果、極端に不平等な社会が生み出されてしまったといえるだろう。しかも早期の工業化の為に必要な全面計画化がほとんど不可能であることは、年を経るごとに増大していったソ連の官僚機構が象徴している。
ソ連における経済計画管理は、社会的生産をコントロールしていく為に中央レベルでの社会的生産の意思決定を企業、個人レベルにおろしてゆき、ミクロの行動をマクロの計画目標実現の方向に向かう様に指令、管理、調整していくものである。しかし、これを行う為には膨大な数の官僚が必要とされ、ソ連においては1987年の官僚機構の人数は1770万人とソ連の労働者の実に15%にも達していた。それでもソ連における全ての生産物に関する処理を完全に行うことは出来なかったのである。国が経済の全てを管理することは、その国が発展し大きく複雑になればなるほど困難になっていく。その意味で資本主義という可能な限り市場に任せるというシステムは極めて合理的で、それに対して社会主義は、より安定した社会システムの構築という理念こそ素晴らしいものの、現実的にはほぼ不可能なことをやろうとしている。そのシステムの維持に必要な官僚機構の規模が、社会主義経済と資本主義経済の明暗を分けたといえるであろう。

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