第一次大戦勃発の要因―硬直化した同盟と軍事計画―

平成19年5月 冬月

 

第一次世界大戦は何故勃発したか。今日議論されている様々な要因の中から、私は今回、大戦前のヨーロッパの同盟システムに注目したい。

開戦前夜の各国間の政治的誤認もまた第一次大戦の勃発を説明する上で魅力的な要素である。各国が望まずして全面戦争に突入した第一次大戦へと至る過程には、通常の状態であれば戦争を回避できたはずの機会ないしは力学が多分に偶然や誤認によって働かなかった事が今日明らかになっており、例えば危機の発生時フランスの首脳が外遊中で個人的に親ロシア的過ぎた駐露フランス大使が独断でロシアに強すぎる保障を与えた、反対にイギリスのグレイ外相の曖昧な姿勢が両陣営に都合の良い解釈をさせてしまった辺り[1]は、外交上の不幸な誤認といえるだろう。

しかしこういった戦争への偶然の対義語として存在するのはやはり平和への偶然でしかない。いかなる時代いかなる状況であれ歴史から偶然や誤認の影響力を完全に排除する事はできないが、一方でそれ単体では戦争を引き起こす決定的要因とはならないだろう。むしろそうした本来であれば些事であるはずの偶然や誤認といったものを歴史的大事件に発展させてしまう水面下の構造こそが重要な問題だ。第一次大戦においてはサラエボの銃声が歴史的に目立ってしまう一方で、そうした偶然や、あるいは誤認の数々が戦争につながるような前提の状況を醸成してしまったこの時代のシステムに着目すべきなのである。

サラエボ事件から生じた七月危機の進行を各国が止められなかったのは、軍事同盟に代表される各国の対外姿勢が極めて硬直化しており、ビスマルク時代のようなリアルポリティークに基づく打算的な柔軟性を欠いていたためである。これについては各国の大衆世論の台頭やあるいはカイザーの好戦的政策に責を問う事が出来るかもしれない。

いずれにせよ各国は長期的な共通の利益という大きな認識に向かうよりも条約に定められた公的義務を遵守する事に気を奪われ、自国の面子を損なう譲歩や妥協をする事は望んでも難しい状態におかれていた。これについては、ビスマルク時代は植民地やバルカンにまだ妥協の余地が存在していたが、この時代にはもはやそうした余地は全て消滅し各国勢力圏の境界線がぶつかり合い、どこかの国が一度前進を宣言したら戦争を回避し難い状況になってしまっていたと考える事もできる。このような息の詰まる状況下で各国の関係は硬直化し外交的な選択肢は極めて柔軟性を束縛される形となった。キッシンジャーの言葉を借りるなら、第一次世界大戦は各国が条約を破ったからではなく、各国が条約を忠実に守ったため始まったのである。[2]

また、戦争発生の直接的要因としては、各国特にドイツが全面戦争を恐れて策定した軍事計画そのものが皮肉な事に全面戦争を招く本末転倒な結果となった。仏露とのニ正面作戦を想定したドイツのシュリーフェン計画は、ロシアの動員の遅さを計算に入れてドイツ軍主力部隊がまずは六週間以内の短期決戦でフランス軍を撃滅し、その後遅れて動員されてきたロシア軍を東部戦線に移動して叩くという戦略を描いていた。[3]このようにシュリーフェン計画は、戦争が始まってからの軍事作戦というより、開戦前の動員計画から攻勢作戦まで含めた計画である。これは作戦を効率的に実施するためには一見有効だが、しかし外交を束縛するという落とし穴が考慮されていなかった。

シュリーフェン計画を実際に運用するための最大の前提条件は、ロシアとフランスの総動員完了までの速度差にある。その広大な国土からロシアは総動員終了までに時間を要するため、その間にドイツ軍は全力で西部戦線のフランス軍を撃滅し、それから東部に侵入してくるロシア軍に兵力を反転急行させる。先述のように一見極めて合理的だが、しかしロシアの動員にかかる時間に依存した冗長性に乏しい作戦だ。そしてこれは、ドイツがフランスとロシアの動員速度に遅れてはならないことを意味する。これではロシアが動員を開始した時点で開戦を決断しフランスへの攻撃を始めないと、シュリーフェン計画は使えない。

通常国家間の交渉を行うのは文民の外交官であり、従って外交的解決の断念すなわち開戦の決断は文民によって為され、その後軍が戦争を始める。ところがこのシュリーフェン計画ではロシアの動員と同時に自動的にフランスを攻撃しないと間に合わない。

ロシアは1914年7月30日、オーストリアに対して部分的動員を下令した。このようにして第1次大戦は外交上の紛争とは直接関係なく戦争計画が一人歩きして開始された。これは多分に外交的示威を目的としていたという説もあるが確証は無い。しかし確かなのはこの段階でロシアのツァーはオーストリアはともかくドイツとの戦争までは決意していなかったという事だ。外交交渉の余地はあった。だが軍事的には独露両国の参謀本部は、ロシアとオーストリアの部分的動員による限定戦争でなく、ロシア対オーストリア・ドイツの全面戦争しか想定しておらず、結果はツァーの思惑とは別になった。

ツァーが何を思って部分的動員を命じたにせよ、ドイツにとってロシアの動員はシュリーフェン計画の発動を意味し、ここで戦争を始めなければ、ロシアの動員が終わる前にフランスを叩かなければならない立場にあるドイツの予定表は狂い、勝率は低くなる。[4]結果、ドイツとロシアとの間に何ら直接的な外交上の係争が無い状態で満足な外交交渉も無く自動的に戦争が始まる事になった。

ドイツではこのようにして軍事計画が国家戦略全体の中で最高に重視されてしまった結果、七月危機で他国の場合より直接的な軍事的推移を招いた。[5]

ドイツ以外の国々でも、いったん危機が進行し始めると、文民政府の閣僚達が持っていた行動の自由は、参謀本部や海軍省などの戦略計画や諸決定によって、彼等が認識していた以上の制約を受けるようになり、ついで戦争直前の巨大な軍事計画へと連動させられていった。[6]

このように第一次大戦前夜のヨーロッパにおいては今日と比較して外交交渉による平和的解決への努力より事前に各国軍が定めた軍事計画のスケジュールが優越しており、こうした構造問題こそが戦争を招く直接の要因になったと考えられる。



[1] ジェームズ・ジョル『第一次世界大戦の起源』(みすず書房、1997年)2526ペイジ。

[2] ヘンリー・キッシンジャー『外交』上(日本経済新聞社、2000年)294ペイジ。

[3] 渡邊啓貴『ヨーロッパ国際関係史』(有斐閣アルマ、2002年)63ペイジ。

[4]『外交』(同上)300ペイジ。

[5] 『第一次世界大戦の起源』(同上)308ペイジ。

[6] 『第一次世界大戦の起源』(同上)12ペイジ。




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