『あの戦争になぜ負けたのか』半藤一利、中西輝政、福田和也、保阪正康、戸高一成、加藤陽子()、文春新書

 

書評:冬月

 

 識者六名による座談会がまとめられた本書はその題名に『あの戦争になぜ負けたのか』と銘打っているように日本が何故あの戦争、すなわち大東亜戦争(この呼称は右翼があの戦争を美化するためのものだというネガティブな解釈が今日の一般的日本人の通念なので誤解を避けるために通常あまり使用できないが、第二部の参加者各位のあとがきにおける中西輝政京大教授の説明によれば、アジア太平洋戦争という呼称は日中・日米戦争を表現できても日ソ戦が欠落してしまい、全てを含めたあの戦争を示すにはこの呼称が相応しいと考えられる)を行い、どのような失敗や欠陥によって敗戦に至ったのかを議論している。

 

 本書で挙げられているこれら失敗・欠陥を大きなテーマから要約していくと、まず国家組織全体としての歴史的な大戦略の欠如があり、次いで明治体制に根ざした軍と統帥権の欠陥がある。だが時として明治以前の日本人の国民性にまで遡る壮大なテーマは戦争の遠因であってもノーリターンポイントにはならず、議論をより具体化すると、外交の脆さ、陸海軍の体制や認識、慣習の欠陥が説明される。そして戦争へと至った戦略の欠如の次は戦争における戦略の欠如が議論され、ここでも陸海軍の体制・慣習が主に問題となっている。最後は、収録形式にもよるが通常座談会だと参加者は自著でのように自分の主張を満足に展開できないので、あとがきの第二部でそれぞれ自分の意見を補足して終了である。

 

 参加者によって若干の差はあれ六名ともその論調はいってみればあくまで身内の人間としての技術的批判が多く、陸海軍の幹部達をその職務上の失敗について批判はしても例えば彼等を『戦争犯罪人』だと断じるなどその職務を根底から否定するような非難はしないし、あの戦争に関して日本の侵略行為を道徳面で非難する世間一般の左翼的知識人の戦争批判とは一線を画する切り口で、文中にあるように左翼の自虐史観でも右翼の自慢史観でもない、あくまで日本の国益のための冷静な日本批判として貴重である。ただし座談会であるが故かもしれないが、国家や民族の壮大なテーマを論じていたかと思うと、急に狭い世界の人名を挙げてのいわばゴシップに近い人間臭い話に転換したりと歴史考察におけるズームの切り替えが激しく、この時代の歴史の知識が既に豊富か興味を持っている人間には面白い読み物でも、そうでない人間への入門書としては文量が少ないが故に難しいだろう。

 

 また私が読んで本書の興味深かった点は三点あるが、うち本筋とあまり関係の無い二点について、まず腐敗した政党政治や熱し易い世論の戦争への責任は他所でも議論される事だが、大正デモクラシーで台頭した左翼イデオロギーが戦争に影響したと言う文中136ペイジから138ペイジにおける議論は貴重だと思う。ここでも述べられているように戦後日本では左翼批判がタブー視される不公正な状態が続いており多くの国民が見落としがちな事だが、例えば今日でこそ社民党とともに『護憲』を標榜して多くの国民から護憲政党だと誤解されている日本共産党は、決して平和主義的な政治結社ではなかった。他の平和主義者の主張に上手く擬態してはいるが実際共産党が自衛隊に反対していたのはそれが軍隊だからではなく『アメリカ追従の』軍隊だからで、自衛隊や日米同盟などを排除して日本をいったん非武装化した上で『日本人民共和国』なるものを建国して親ソ体制をつくり親ソ的な自衛組織を保有するというのが1960年代まで日本共産党が目標としてきた『中立自衛政策』であり、非武装平和主義とはその目的が途中まで同じだが最終的な着地点はむしろ極めて好戦的で危険である事がわかる。事実日本共産党は日本国憲法制定時の採決に吉田首相の述べた自衛戦争の放棄を不服として反対票を投じており、50年代前半にはコミンフォルムの指導でその一部は非合法なゲリラ活動を展開している。日本共産党が憲法9条保持へと主張を転換するのは1994年の第20回党大会を待たなければならない[1]。このような左翼イデオロギーが本来隠し持っている好戦的側面に言及した点で、本書は高く評価できる。

 

 また第二に、これは半藤氏が座長を務める座談会だからか、参加者全員が当然の如く昭和天皇の側に立った見方をしている論客である事は、私個人にとっては好ましい事だと断っておくが、遺憾ながら昭和天皇の戦争責任論が声高に議論されるようになった今日の日本においては幾分か客観性を欠いた座談会だと言われるのかもしれない。半藤一利氏の名著『ノモンハンの夏』(文芸春秋、1998年)は主に辻政信参謀を始めとする関東軍上層部が大局に立った戦略的視野を欠き功名心や組織の権限拡大といった目先の目的のために無益な紛争を誘発して大きな損害を出し国家をミスリードさせた政策的失敗への極めて冷静な批判であるが、同時に半藤氏が昭和天皇を強く尊敬しその人格を信頼している事、戦争に反対する天皇のコントロールを故意に逸脱した関東軍の暴走に対する時に感情的でさえある彼の憤りが文章の中に垣間見える著書だ。この座談会も基本的にその論調の延長線上にあって、こうした論調が昭和天皇寄りに偏っているとの批判の余地も確かにあるだろう。歴史教科書問題で有名な左翼知識人の家永三郎氏は著書で、『冷静な天皇でさえ、194239日には、にこにことして、木戸内大臣に対して、「あまり戦果が早くあがりすぎるよ」といったという』として、昭和天皇も戦争で日本が勝っていた時は浮かれていたというような批判をしているが[2]、同じ著書で「ソ連の対日参戦は日本に道義的責任がある」と大真面目で主張している[3]ようなこうした知識人の主張とて客観的ではないし、それこそ彼等の主張を借りるなら天皇とて人間であって神ではないのだから、百個ある発言を精査すればどれか一つに矛盾も出るだろう。そうした枝葉末節をあげつらって天皇が一貫して戦争を回避しようと努力し続けた事実を裏付けるその他大多数の言動を否定して天皇を批判しようと試みる事もまた、客観性に欠いた行為である。

 

 最後に三点目として本書で印象的かつ衝撃的だったのは、こうしたパースペクティブの本としては珍しく、陸軍のみならず海軍への批判に一項目が大きく割かれている事だ。帝国海軍はこの手の現実主義的な戦争批判の書物では昭和天皇に次いで擁護される事が多い。「紳士的な海軍、野蛮な陸軍」というイメージや、「海軍は戦争には反対だったが、暴走する陸軍に引き摺られた被害者だ」といった通念は、山本五十六という名将への愛着と共に戦前のものは何もかも悪だったという一般世論の中で唯一の例外として広く浸透しているし、だからこそ海軍が陸軍と違って戦後もその組織・人材を温存して海上自衛隊へと実質的に移行し、帝国海軍時代の気風や伝統を数多く受け継いでいる事に対して国民のアレルギーが出ないのだと思う。こうした通念そのものへの懐疑から始まる本項目は、極めて強い衝撃を読者に与える。

 

ところが、ここで実際に行われている議論に読み進んでみると、戦時下の海軍の人事や組織的体質、ひいては戦争においての戦略・戦術の欠陥に関して手厳しい批判は為されているが、これにはいささかの問題点のすれ違いを感じざるを得ない。座談会の中で海軍への過度の責任追及や一方で海軍の事実誤認の過大報告で損失を被った陸軍の擁護を他の論客が行っている間、事実関係を簡潔に提起する以外はほとんど沈黙している場面が多い半藤氏であるが、半藤氏の『ノモンハンの夏』ではドイツがポーランドに侵攻する直前の19398月に、日独伊三国軍事同盟の可否を巡って推進派の陸軍に反対派の海軍が一歩も譲らず五相会議が紛糾し、東京は陸軍と海軍が友軍相撃も辞さない一触即発の情勢であった事が記されている。天皇が葉山に静養中の留守をついて陸軍が平沼内閣と海軍を倒し戒厳令を敷くという噂が広まり、811日に井上成美軍務局長が海軍省に非常警戒を発令、14日の朝には麹町付近で演習していた陸軍近衛師団の中隊が実際に海軍省を包囲するかのように展開するという示威行為を行った。226事件の再来が本気で恐れられ、井上と次官だった山本五十六は陸軍による海軍省襲撃に備えて横須賀鎮守府に陸戦隊一個大隊の常時待機を命じ、大阪にあった連合艦隊の主力艦艇にも東京湾回航を指令、さらには篭城を覚悟して海軍省内に兵器・弾薬・食糧をはじめ、電気を切られた場合の自家発電機、水道を止められた場合の井戸を掘る準備をし、持久戦に備えた。このように海軍が身を挺して陸軍の暴走を阻止しようとした様子が克明に記されている[4]

 

このようにそもそも海軍の戦略とは自らの戦力が米英に対して不十分である事をよく認識した上で米英との対立を回避することであって、工業生産力に圧倒的な差がありまた日本にとって石油と鉄の輸入元であるアメリカと全面戦争すること自体最初から勝ち目が無かった事はこの座談会も認めている。つまり通常の戦法で戦っても結果負けるのは自明の理で、それを開戦が決められてしまったのだからもはや奇策を行うしかなく、それを合理的でなかったとか戦略・戦術が精彩を欠くとか批判するのは簡単だが、そもそも開戦した事自体が戦略的な誤りだったのではないのか。ましてや海軍関係者が戦後海軍のイメージを向上させるために一種の世論誘導を行ったのではないかという文中の示唆は、さすがに行き過ぎた批判なのではないか。その点を見落とすべきではないだろう。



[1] 筆坂秀世『日本共産党』(新潮社、2006年)41ペイジ。

[2] 家永三郎『日本の歴史:7』(ほるぷ出版、1977年)111ペイジ。

[3] 同上102ペイジ。

[4] 半藤一利『ノモンハンの夏』(文芸春秋、1998年)276ペイジから278ペイジ。



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